2008年までの背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

23

【2008年開幕時点】

 

 

 かつてはスター野手ナンバー。'64年に山内一弘に抜かれるまで265で本塁通算最多記録保持者だった青田、'80年に衣笠祥雄に抜かれるまで1246で連続試合出場最長記録保持者だった飯田、華麗な内野守備{※1}で「今牛若丸」の異名を取った吉田義に、スイッチヒッター第1号の堀尾{※2}、20年選手第1号&日本シリーズ第1号本塁打者・呉、助っ人第1号&“ささやき戦術{※3}”の元祖でもあるハリス、大学時に「スモークボール」のレフティー・グローブ{※4}から日本人初安打した桝{※5}・・・。そして近年、373試合目の史上最速で通算500安打に達した青木がこの
伝に加わってきた。ただその間は長期レギュラー野手が木俣、ローズ、準レギ級で小川、村松と輩出ペースガタ落ち。水上、川又、佐藤兼、関川も「23」レギュラー期間は3年前後。槌田[つちだ]、'74年長崎、から高柳、西岡、川又、津末の代打者一団に象徴される“仕事人”に遣われてきた感がある。転換となったのが'68年、前年まで通算65安打、8本塁打から10年目の当年中盤よりクリーンアップに定着し殊勲打を連発した矢野。最終戦では四番に座り1点ビハインドの9回に同点タイムリー、11回サヨナラ本塁打。直後に同勝率で並んでいたホークスが敗れて“優勝決定”の劇的フィナーレを飾った。だか翌'69年、本塁打は25マークも打率2割未満でポジションを手放したことで、より鮮烈さをまとって“記憶”される結果と
なる(ちなみに矢野は通算64本塁打中6本がサヨナラ)。また同時期、期待の槌田が代打上まり。そして長崎、水上、松本匡、山崎隆が脱番後大進境。で、“現役感”薄れたところへ先記高柳以降の代打4人衆来参。すっかり路地裏に咲く花の趣。一方で矢野が残した鮮烈像は、小川、大塚明が“突発的に”四番起用されたり、関川が'99年、矢野同様にリーグ優勝の隠れMVP的活躍{※6}を見せたり、(投手も含め)'96年村松、'97年小池、'01年藤井、'05年青木と全くのノーマークから突如タイトルホルダーが現れたりで「23」に生き継がれている。そして翌年から成績下降の点も矢野譲り。も、それは青木によって打ち止められた。ふり返れば冒頭のスター打者中、青田、ハリス以外はリードオフマンタイプ(飯田はホークスでは主軸*1、スワローズでは主に一番)。また呉、飯田、吉田、渡辺清、村松と韋駄天の系譜も存在し、双方の後継を兼ねる青木は「23」にうってつけの旗頭。そしていつの間にやら尾崎、城所[きどころ]、藤田、脇谷[わきや]、新人・聖澤[ひじりざわ]と同系次代プレーヤーが一団集結。尾崎、藤田、脇谷の3人は吉田から、控えの漆畑、藤本伸を挟んで石黒、松岡、末永、梅田{※7}、中原、水上、山崎隆、佐藤兼、小川、ローズと続く二遊間系譜の後継候補でもある。
 さて現在はそのイメージが廃れているが、冒頭で記したように「23」は戦後すぐの代表的本塁打者・青田が着けていた背番号。それまで、堀尾、桝、呉に、玉腰、森田、富松、佐竹、'47年時点での西沢、飯田と好打者続き{※8}。例外は'38年春に当時珍しかった1試合2本塁打を2度記録したハリスのみ、といった流れの中{※9}で'48年いきなり本塁打、&首位打者、打点も3位でイメージ刷新。当年含め20本以上7、30本超3度で本塁打王に5度輝き、奔放な言動と併せ「ジャジャ馬{※10}」と称された。青田現役中のイメージフォロワーは中距離系の飯田に、アベレージ系の安居、呉、吉田といったところ。だが晩期を迎えてからは衆樹[もろき](=東京6大学の戦後初三冠王王者)、難波、黒木、漆畑、木俣、槌田(=東京6大学の戦後2人目の三冠王打者)の“大型”新人に、2軍の本塁打王・太田、ベテランスラッガー・寺田、加えて先記の矢野が、選手生活の終焉を惜しむかのように続々集結。'65年黒木25本、'68年矢野27~'69年25本、そして木俣が'68~'72年と連続20本超、'69'70年は30本以上とイメージの灯を継いだ・・・ものの、当時は王貞治の量産期。木俣が1番接近した時でも11本差と青田のように抜けた存在とはなれず。上垣内[かみごうち]、菊地、小金丸、中司も花園かず。木俣去ったのちは'86年津末19本、'87年川又16本が精一杯。平成に入るとマイヤー、ブーマー、ホール、ビディエロ、オバンドー、ブラウンの短期型助っ人大砲( &'99年突発参入のローズ)にその名残りをとどめる程度となった。が、ここへきて北川が来番。キャラとしては矢野タイプで'05年~16、8、9と本数伸びずも、再び「青田番」継承者登場への契機となる可能性は充分。また、'74年以降木俣は3割4度 (本塁打15前後)のアベレージ系へとスタイル変更。こちらも'73年服部~'74年長崎の準~半レギ選手に名残りが見られるのみにとどまっていたが、'91年レイノルズが11打数連続安打(当時新、現タイ記録)を含む.316(セ5位)。から、次着・ローズが8年間で3割7度。それも首位打者1、打率2位4度と抜群の安定感を誇り、'99年は.369に加え37本、153打点の全能ぶりで「23」の旗頭に。その波に'94年小川、'96と'03年村
松が乗り、'05年青木が、ローズの'99年192安打のセ記録を更新する202(現2位)を放って後釜となり、’07年は.346に加え20本、58打点、&114得点と全能ぶりも確継する勢い。
 それに比べるとおとなしい動きながら近年投手番の灯も再燃傾向。これまで、投手像が根付きかけたことは2度あり、1度目は'46年。藤本英21勝(うち監督を兼任していた6月までの5勝は「30」番で記録)、呉14勝、森井10勝をマーク。 しかし藤本、森井は翌年退番、呉は'47~'49年各1登板のみで衰退。 2度目は'56年。鳴り物入り新人・畑[はた]が5月初登板で完封~6月までに7勝1敗。も、ここで腰痛リタイア。 結局'60'61年のみ2桁勝利(脱番後にもう1度)にとどまった。他に2桁勝利例は'52年ニューベリー、'54'55年松山、'57年榎原[えばら]、'59年ミケンズ、'67年与田(='64年非到達も200イニング超)。加えて中継ぎで橋詰、簾内[すのうち]、芝池、大川、酒井、先発との両役で古沢、が残り香を焚いたぐらい。だったが平成に入り'92年金石、'97年小池、'01年藤井が各15勝前後、にプラス角3年、横山1年、門倉2年、バーン2年、小池('97年含め)5年ローテーション入り。'93~'96年金石、'98年シュールストームは抑え、'05年~横山&鈴木義は中継ぎでとポツリポツリ便りが訪れるようになった。開花途上だった西村は、60年前の藤本の貸しを返すかのように「30」変更したが、'01年11勝腕・許[シュウ]が復調気配。
 ところで「23」は、移籍にまつわる騒動ネタの宝庫。ゴタゴタ移籍の第1号・ハリス(背番号「6」編参照)に始まり、巨人の藤本英~ 青田はともに球団内での処遇を不服として退団。藤本は移籍先・中部日本で再びお家騒動に巻き込まれ'48年巨人復帰。 内紛が元でのドラゴンズ退団といえばハリス(当時は名古屋)、西沢(同・中部日本)もそう。 西沢は藤本同様に'48年古巣(中日)復帰。加えて呉は2リーグ分立の際、タイガース主力5選手がオリオンズ一斉移籍した時の当該選手(もう1人の土井垣ものち「23」着)。'50年オフには青田がパイレーツ(→合併後のライオンズ)入りほぼ確定までいきながら、すったもんだの末残留という騒動がおきている。ゴタゴタではないが富松は脱番後の'42年オフ、苅田久徳との“交換トレ
ード第1号”当事者に。また塚本は'47年オフから5年連続移籍(うち1度は合併)。飯田は移籍先・スワローズで監督となり、ホークス帰還後再び監督、とジッとしていられない特性はまさに韋駄天ナンバーにふさわしい。だが吉田{※11}、木俣、のビッグネームに続き、堀井、簾内、岡田、中原、高柳、長村、川又、佐藤兼、酒井、上田和、大塚光と生え抜きの「23」での選手引退例も目立つようになりイメージ融和。またここ5年でバトンタッチが相次いだことで生え抜き若手率が急騰。ながら、その多くが“我が道を行く”職人タイプと見ると、今後もさすらいイメージは汲まれていくのかもしれない。
【2008年開幕時点】

{※1}飯田も華麗な名一塁手。呉は「人間機関車」の異名通り猪突猛進型の脚&'46年“急造”投手時に無安打無得点したほどの“頑肩”併備。ハリス、青田もスピーディー&強肩。
{※2-ⅰ}'36年プロ参画の名古屋・鈴木秀雄も両打[スイッチ]だが堀尾'34年全日本から参画の分だけ先達。
{※2-ⅱ}また堀尾から、柏枝、銭村、ラドラ、マイヤー、シュールストロムのハワイ組続々。
{※3}のちの野村克也は“口撃”型だったが、ハリスはカタコトを利用した脱力陥穽型。
{※4}'31年日米野球で来日。早大戦の8回登場、6連続奪三振で「ボールが見えません!」と絶叫実況され、「スモークボール」の呼称付く。翌日、明大戦で桝に初被安打。
{※5}投手はニューベリーが日本球界での黒人第1号、橋詰がワンポイント(成功)第1号。
{※6}日本シリーズでは両者とも21打数2安打。逆に大塚光は4度出場で計58打数23安打。
{※7}'73年プロ初本塁打が当機構通算3万号に、のはずが、'76年29999号に訂正。同時に'58年寺田(別番時)の1万号が9999号、にかわり渡辺清が10001→1万号となる奇縁。
{※8}'49年、飯田が27本塁打(7位)したが以降減産。また背番号廃止の'43年中谷打率5位。
{※9}ただし'46年藤本英、'47青田が、ともに“2死満塁”での懸賞本塁打を放ちトピック提供。
{※10}馬に喩えられる通り20盗塁超4度の“駿足”面も(ハリスも通算180試合で24盗塁)。
{※11}ただ僚友・村山実との派閥争いは恒例で選手引退も村山監督就任を受けて、が通説。
【2008年開幕時点】

*1:'52年終盤~四番