2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

32

【2008年開幕時点】

 

 暫定一軍戦力、それが「32」を与えられた選手の通則。ここをスタート地点に、正ポジション確保なればレギュラー番号を新調、バイプレーヤー定着なら「32」継続。何となく“ドラフト3位”的なイメージ。それは(「34」「39」を除いた)30番台全般にもいえることではあるが、“とりあえずスタートはここ”という感じで着用者から添い遂げる意思はあまり感じられない。現役(2008年現在)でも例外は前田ぐらいだ。故に“上昇志向”臭の強い背番号となっている。
 過去を振り返っても「32」を出発点とし青田は「23」、小質は「3」、長谷川「18」、種田「15」、安原「17」、若生智「18」~「27」、弘瀬「14」、 谷本「20」~「27」 、広島 「29」、伊藤竜「7」、重松「6」、池田「7」、森安「26」、岩崎「15」、大矢「27」、石渡[いしわた]「6」、河埜「8」、西村徳「3」、高橋雅「6」、水口「10」、松井「7」で全盛を迎えている(プロ3年目までに着、の選手対象)。移籍着の加藤博、佐伯、内田も“1軍必須戦力”と認知されると各々「8」、「20」、「7」へ改番。名指導者・近藤貞雄のスタートも'55年「32」から。また「ジプシー」こと後藤修(移籍6度&’53年球団合併経験者)のプロ出生番号でもある。
 と、「32」はスケールの様子見といった趣が強く、ためにどうしても生き残りは一軍半クラス。その埒外に置かれる尾花、西山にしても、エース格、レギュラー格、ではあるが尾花は'82年~4年連続2桁利&チーム最多SPながらオールスター出場は3度('82~'85年中では2度) 、に加え'86年~3年連続最多敗北、規定到達10度中防御率4点台が3度と安定感に欠け、西山は規定到達した'94'96年ともにベストナイン&ゴールデングラブ&オールスター被選出、'96年は打率3割超 ('94年も.284)、ながら両年以外は、.220~.230終始で僚友・瀬戸輝信との併用体制脱せず。何より、尾花の選手引退の翌年からスクローズ黄金期が始まり、カープが最後に優勝した(2008年現在)'91年の翌々年より西山レギューラー格定着、のめぐり合わせの悪さ。逆にいえばこの“突き抜けなさ加減”が、「32」にふみととまれた要因かもしれない。
 そんな「32」の存在初台頃は'40年森。半レギながら、158打席で11犠打。当年トップ17犠打の藤戸逸郎が354打席、だからこれは突出して高頻度。 ’41年はレギュラーとなり打率.227でチーム2位(全体17位)。他に竹内が'40年三塁手控え。また選手では'43年二塁手半レギ止まりも加藤嘉は、かつてノンプロの雄、八幡製鉄で監督だった人物。'40年助監督兼選手でプロ入りすると、'42'43年はともにシーズン途中から、'44年は通して監督に就いた。'43'44年を除いた選手出場は25試合で、その両年は背番号廃止年だから、“「32」を伴って”のイメージでは指導者像優勢で、存在感からすれば森より印象強。だがそれをもしのぐ“驚異の新人”が'42年にやって来る。小鶴と青田である。 小鶴は加藤と同じ八幡製鉄出身。同関係者が“プロ行き反対”を標榜していたため、当年8月まで本名ではなく出身地の「飯塚」を名字にしてプレー。いきなりクリーンアップに座り、打率10位の. 216。そしてさらなる鮮烈を放ったのが7月入団の青田。 当時(満)18才ながらまたたく間に主戦力にのし上がり、9月以降の秋季に限れば'389で打率1位、通年でも.355(打席数は大きく違うが当年首位打者の呉波[ゴハ]で.286という年)。「32」の印象一変、というより初めて記憶に刻印される年となった。背番号廃止ながら'43年も両者レギュラー。青田は42で打点王も獲得。
 しばし中断後、'46'47年と小鶴再び「32」で主軸。'46年10本塁打 (3位)~'47年9本(6位)と長打者として色めき始める。
 も、オフ移籍退番。くしくも戦後別番着用の青田とともにこの直後に本格量産打者へと大成しており、ステップアップ番の印象が萌芽。続いて'50年、長谷川が56登板(348・1/3イニング)を投げ15勝27敗{※1}~「18」へ。つなぎ打者・千原、切り札代打・大館{※2}で平隠に戻ったあと、'54年4人目の超新人・宅和が60登板(329・2/3イニング)26勝9敗、防御率1.58。 翌年も58登板24勝で連続最多勝。'55年はオールスター2先発の無窮奮迅。も最後日本シリーズでは苦汁をなめる。1敗後3連勝、で迎えた第5戦の先発の初回、シリーズの流れがガラリと変わる(ことになる)3ラン本塁打を無名の若手・藤尾茂に浴び、チームはここから3連敗。宅和自身も翌年6勝~以後選手引退まで1勝もできずと大衰勢。また同シリーズ第6戦の巨人先発は安原。初回、打者2人に連続被安打で秒殺KOされ、2戦連続で「32」激短陥落。その安原は当シーズンでは12勝、防御率1.74を残した、が翌年改番{※3}。さらに'57年~6、9勝の弘瀬、'60年~13、9勝の若生智も脱、でステップアップ番イメージ完全浸透。野手も'57年半レギ・谷本、'63年準レギ・伊藤竜が脱、で残ったのは代打者・島田。
 '64年、小淵[こぶち].306でセ5位、重松.296で7位、本塁打ともに15。重松はベストナイン&オールスターで本塁打マーク ~3年準(小淵は2年) レギュラーを張り、'67年脱。続いて'67年より4年間準〜半レギの池田も'71年脱。'70年準レギ・大矢も'71年脱。さらにバックアップ要員の滝、橋野、日下、岩崎から、滝、岩崎も抜けた。投手も抑えの新山 ('64'65年2桁勝利)、中継ぎ・三好、全局面型・牧野、近藤光、先発・バーンサイドと平静ムードが流れる中、横手から快速&荒れ球使いの森安という閃光が走ったが、すぐに退番。
 さて続々概去していく中で、'70年池田が残した代打満塁サヨナラ本塁打。を印象起点に、萩原、日下、から内田、柳田の代打流れ発祥(日下は'60年代は守備要員)。日下以外は池田(に島田)も含め“左打”という共通像も併有。また'74年、遊撃手・石渡[いしわた]が'65年小淵以来とな
る規定打席到達。から万能内野の半レギ・新井、同控え・久保(両人とも主に一塁。'77年陽田[ようだ]も一塁控え)が続き、'79年DH・ユーイング、'80年中堅兼二塁手・加藤博は規定到達。加藤は.314でセ5位&34盗塁もマークした俊足の両打。直後、岡、木村孝、西村徳、谷、南牟礼、引間、高橋雅と俊足集結。木村、西村、引周、高橋は両打で、岡、引間は内外野兼務(西村も脱番後外野手転向)と“加藤イメージ”拡散。この中から'83年谷、’84~'86年西村、'87年高橋がレギュラー。そして加藤より西村、高橋、に控えの木村、南牟礼が1桁番改番。
 一方'67年三好6勝、新山4勝、以降ほぼ無印象だった投勢は実績者の佐々木、佐伯を得て再胎動。だが佐伯は先発2年~脱番し、佐々木は最多で4勝。'78年には救援登板した田村が3連続押し出し。も、'79年尾花がローテ入り。6度の2桁含む通算112勝を全で「32」で挙げた。とはいえ他戦力は'78年佐々木、'80年藤岡、'86年石井毅、'92'93年山田が中継ぎ ~'96年ホセ('03年ギャラード、'07年カーターも一時)抑え。先発は'90年6月加入の本原[もとはら]5勝~'91年8月、'02年シールバック8勝、に古賀、橋本敬('84年)、桑田('86年)、松本、レフトウィッチ、サンダース、ロマノが一時。が主なところでもう“尾花貯金”は使い果たした感アリ。
 そしてその“受け渡し先”の捕手から、'80'81年半レギ格・吉本、のあと'93年~レギュラー格・西山が出てきて尾花の後釜旗手に。他勢力では山口重、水口、坂口、樋口・・・の万能サブ内野一派が領地確保。水口は’94年遊撃レギュラー(となり脱番)。同年は西山、グラッデンもレギュラー。'95年はクールボーが22本、金森ほぼ代打で3割超、そして半レギながら21盗塁・松井が'96年遊撃全試合出場、50盗塁、.283はパの9位と開眼(して脱番)。同年西山も.316でセの8位、加えて大森剛が日本シリーズ2本塁打~'97年小野初打席本塁打~'98年井上開幕しばらくスタメン被抜擢の飛躍予兆続き・・・も全頓挫。だが'98年、久々の“驚異の新人”坪井が.327(セ3位)の新人史上最高打率~翌年も3割マーク。も'00年.272 (セ20位)から急降下(~移籍脱番)。逆に'00年、10年目の犬伏が初本塁打&お立ち台にも上り、'05年、8年目の石井義に5年目ながら33才の沖原(=6月加入)が相次いでレギュラー初着座。石井は3ヶ月半パの打率トップを走って.312 (4位)と遅咲きナンバーの感萌芽。が、両者とも'06年半レギ陥落&再び新人の梵[そよぎ]が遊撃レギュラー着(~脱番)。
 と、水口、松井、沖原、梵、さらに'83年谷{※4}、'87年高橋も加えた遊撃レギュラー勢が、尾花~西山の間隙を縫う形で点在割拠。その残像プラス山口重・・・より脈々流れる山本、永池、前田、久慈、浜名、森本、根元の万能サブ内野がイメージサポート。西山退番後の「32」旗手の座を群像占拠しつつある。だが'05年半レギ、以降沈滞中の小野が、自チーム大黒柱・古田敦也の選手引退の突破口を突き、半結実ではあるが「32」の遅咲き流れに乗れれば('08年で12年目34才) “抑え捕手”中嶋というサポーター既存なだけに捕手像反攻の目もある。
【2008年開幕時点】

{※1}27敗&190失点、に1試合14失点はセ記録。同年伊藤万も1試合18失点の日本記録。
{※2}ハワイ出の元柔道選手。代打通算9&年間('54年)4本塁打とも'65年まで日本記録。
{※3}'61年野手となり再着(控え帯同)・・・のち巨人投手の息子・政俊は上手[オーバー]&横手[サイド]の2刀流。
{※4}名遊撃手・吉田義男の甥・・・吉田のタイガース~仏国[フランス]代表監督下でのコーチが新山。
【2008年開幕時点】