2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

52

【2008年開幕時点】

 

 イチロー(=「51」)を追うイメージで固まりつつある「52」。高校時“薩摩のイチロー”と呼ばれた川﨑を筆頭に、栗山、紺田、赤松、石川雄、坂口智、星と快足トップバッター候補が続々入番。十川[そがわ]、塀内[へいうち]、都築[つづき]、大須賀、岩舘[いわだて]も走・攻・守揃いの一、二番タイプで、投手・玉山健も毎年のように内野手転向がささやかれた“一番ショート”のウラ逸材。
 このイメージ解釈の元祖は大島。バファローズから移籍の'96年、「一番・イチロー」のあとを打つ選手に、との意味付けで「52」を預かると、その期待通り「二番・二塁手」に定着してリーグ優勝~日本一を演出。 もっともイチローは同年主に三番、その後も一番に座ることはあまりなく当初の意味合いからは外れたが、逆に以降もこの座を守り続けた“二番・大島”のイメージが単独定着。また、これに先駆け'90年柳田[やなだ]、'91年大内も二番レギュラーとなっており、その残留イメージともあいまって“「52」=二番打者”像が流通。加えて'86年守備走塁要員で1軍半定着の松浦(+'87年柳田、'90'92年大内→田中、も準~フル定着)、に離番中の'88年2軍盗塁王の松林(~'89年大内も同タイトル者)も併せ健脚イメージの下地を造形。こちらも本領発揮はならずも'94年、2リーグ制で史上6人目の新人年の開幕戦で猛打算(=3安打以上) マークの大貝(~結局37試合出場。以降も定着できず)、に脱番後好守のつなぎ役で控え半定着する玉木(「52」では計32試合)といった選手も微弱ながらイメージフォロー。そして旗印・大島が本格発現・・・中の'02年、新鋭・川﨑がわずか122打席で5三塁打と驚異のスピードを披露。翌'03年二番レギュラーに定着して30盗塁&9三塁打、チーム日本一を演出し、'04年は一番で最多安打&(42で) 盗塁王&(8で) 三塁打王の順風進境。が、ここから3年連続序盤で出遅れ、打順も一or 二番を行ったり来たりと伸張率減速気味。とはいっても'06'07年とも7三塁打('06年はトップ)、打率もその両年3割超 ('07年は規定打席不足ながら.329)と打のポテンシャル自体は向上しており、この'05~'07年準レギュラーで栗山も台頭。川﨑とはやや趣を異にする“一、三番”タイプで'05年10本塁打マーク、ながら“六番”も含めこちらも行ったり来たりで定着ならず。その他'05年十川に'06年塀内、坂口、紺田が控えて半頭角を現し、'07年は塀内、細田とほぼ定着。定着ならずも坂口は開幕一番スタメン抜擢され、赤松も28試合 (43打席)で8盗塁と“一群席巻”間近の盛況{※1}ぶり。
 その大シケに呑まれてしまったのが“スラッガー”像。2軍で'86'87年と連続本塁打王の井上真が'89年半レギ定着、12本&オールスター出場&日本シリーズでウイニングボールキャッチ。も、頭部死球の影響もあって翌年控え(3本)~以降は定着もままならず('94年に1本を加えたのみ。2軍では'96年イースタンリーグ初の通算100号到達)。また'87年に当時ウエスタンリーグ新となる21本を放った高橋智が、1軍でも(60打席で)4本と井上に先駆けプチブレイク~も3年間停滞~'91年、ついにレギュラーとなり23本・・・
も脱番。両人と同期・石橋はほぼ代打で計40試合のみ。後は'97'98年立川が半レギで計9本(~脱番)、の他'97年多村&山田広が20試合弱で各1本と音沙汰が乏しくなり、久々に現れた希望の屋・春田も故障により'07年限りで選手引退。で残るは原石・山本の大化けに賭けるのみ、という状況。あるいはその苦境への前兆だったのか、高橋、立川、多村、山田は健脚持ちでもあって(高橋は脱初'92年三塁打王)、これは現メンバー・山本にも通じる特性。
 そして「52」の第1号体現野手も、強打&健脚持ちのフッド。普段は駐留米軍兵という兼業選手で、'53年8月~軍務休日時もしくはナイター時のみの出場で25試合(103打席)、5本&4盗塁(打率.247だが26打点)の成績。同様に当年ペインも兵役来日~9登板、うち8先発して5完投1完封で4勝3敗、防御率1.77。わずか61イニングでリーグ最多の8与死球、与四死球も34の荒れっぷりで、打でも26打席で1本6打点、打率.292の強印象。同年は釜本も22登板6先発2完投で2勝6敗、&80・1/3イニングで6与死球。
 から'54年、小玉が三塁レギュラー (.264 3本13盗塁)、'54'55年丹羽[にわ]が三塁控え。フッドも1番多く就いた守備位置は三塁、と“三塁手”像萌芽・・・も、ともに脱番。丹羽は'57年帰着するが出番減ってイメージフェードアウト。
 投手では'55年7登板1勝の太田が翌年'56年54登板4勝(1完封)6敗、159・1/3イニングで防御率1.86と主力格進境。に黒木が'55年10登板2勝~'56年5登板1勝 (=完封)。ただ脱番後6年で5度2桁勝利の村田が「52」で1登板、逆にかつて3度2桁勝利の和田は「52」で17登板0勝と“惜しい”スレ違いが続き、野手でも前年まで3年間レギュラーの山田利が'57年29打席と持ち場を失った。
 しかし'59年、城戸が“三塁レギュラー”が再現出。.257 2本ながらリーグ最多の9三塁打&イニング3盗塁もマーク。同'59年横地も二塁控え〜'60年内野全般かけ持ちで半レギ格。それも'59年は64試合で8だった三塁出場が、'60年は84試合で1番多い37と“三塁”性質より強固に。すると'61年、ドラゴンズの“三塁手不足”解消のためシーズン途中社会人球界から柳川が引き抜かれ{※2}来番。ただ33試合で三塁5、外野22出場と思惑とは外れ、「52」はこれを機に三塁→外野での躍動ナンバーに切り替わる。とはいえその振幅ぶりは、'61年矢野く代打微定着~'62年半帯同、'62年西田守備走塁微定着、'63年倉高(=は一塁手だが)&'66年日下代打微定着、内野では'63年三宅博が守備走塁微定着(=三塁では3試合)、といった感じなので、この辺りでの最も強いイメージは「柚木コーチの番号」だったかもしれない。
 一方で脱番後、小玉、村田、城戸、西田、矢野、池田純に、控えで加倉井、横地、倉高、岩本、日下、渡辺勉・・・が定着し、派手さはないがシブい出世番の趣。首脳陣も、前年甲子園優勝監督→'64年プロ球界復帰着した真田がさらに脱番後、ブレーブス~バファローズでともに西本幸雄監督の右腕(の一人)としていずれも入閣翌年各々球団初優勝に立ち会い、'71年後半開始直後監督就任~9日目に当初8 あった首位とのゲーム差を0にする離れ業を指揮した大沢は、トータルではオリオンズで結果を残せずも脱番後、ファイターズと「親分」と呼ばれる人気監督に、と出世。また別当は、当時すでに“名伯楽”として著名。
 で、なかなか実を結ばない“選手の「52」”だが、捕手で'61'64'66年大久保~'72年石川政が各年20試合前後でイメージ先鞭を着けると、'73年梨田が控え定着。また帰着の城戸が'73'74年三塁控え、'76年田野倉は遊撃控え~2軍据え置きも'77'79年と本塁打王('79年は当時新の19本) ~'80年二塁半レギで1軍再定着、10本。同'80年林も二塁控えで半定着。
 と、ようやくにぎわいを見せ始める中、投手は'65年に渡辺博が19登板1勝したのが目につくぐらいで完全に置いてけぼり状態。さらに'75年より参番の佐藤玖は実質打撃投手要員・・・だがこの佐藤が、脱番後の'98年・53才まで24年間に渡って奮投。すると同じ左の竹口が'80年、中条が'83'84年、小田が'86~'91年と中継ぎ入りして“縁の下”イメージ連帯(ただし竹口は微、中条は半定着。小田も準定着強といったレベル)。一方で'81年右の本格派・井上祐が1先発1勝~'82年20先発して5勝9敗。'91年同系・古里が“ダブルストッパー”の一角指名を受け・・・たが14登板(2勝)止まり。'92年今度はアンダースロー・足利が10先発5勝(2完封)~'93年20先発6勝(13敗)~'94年5先発2勝と中ブレイク。また'93年、かつて他球団でエースを張った西本が先発5勝、同じくの津野も先発2(+救援1)勝を挙げ、大学時野手→プロで投手のウィリアムズが(米国で救援→)'98年先発5勝。さらにプロ入り後投手→野手→投手と変転{※3}を重ねる遠山が'99年~中継ぎフル定着。盛り立てるように'00年ギャラードが抑え[クローザー]~'01年中野渡[なかのわたり]が中継ぎでフル稼動、'00年奈良も中継ぎ準定着。期待の玉山は'04年1勝止まりも、'07年、四国・独立リーグ〜育成枠入団の伊藤秀が支配下登録[開幕前1軍出場可能]選手となって変転来番。結局1年目4登板0勝も、オフにイメージ領主方から栗山が抜け、さらに赤星憲広(=「53」)の前を行かんとしていた赤松がその芽を摘まれる移籍脱番、と大きなヤマが揺れ始めており、まずはその混乱に乗じる形で1点突破目を印したい。
【2008年開幕時点】

{※1}さらに控え捕手方から'97年今久留主[いまくるす]がチーム200盗塁目となる記念スチールを盗[と]り、'06年カツノリは63度走られてアウト奪取5の盗塁阻止率.079でイメージアシスト。
{※2}この頃(=ドラフト制導入前だが)、3~10月は引き抜かないという協約はあった。が、プロ退団者の社会人球界入り枠の拡大、を見送られたプロ側が協約を破棄、直後の強引引き抜き。これを受け社会人側は絶縁宣言。'99年まで断絶状態に置かれた。
MA
{※3}'99年織田[おりた]も投手→捕手→投手転向者。'01年前田勝は日本→米国→日本復帰着~さらに税番後、台湾~イタリア~中国。他に田中実が韓国、高橋智と足利は台煮 谷口は米国・独立リーグへ渡った他、嶋尾が俳優、立川が格闘家へと球界外転身。
【2008年開幕時点】