2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

11

【2008年開幕時点】

 

 豪腕・別所、ザトペック{※1}投法・村山、トルネード{※2}投法・野茂・・・と自負心の塊のような面々が旗印を務めてきた。全盛期は中3日登板を信条とし、それ以上間隔が空くと“稼げたはず”の勝ち星分の給料を監督に要求した別所、勝負球へのボール判定に激高、「退場」宣告に号泣降板した村山、契約で折り合い折り合いがつかないと任意引退、海を渡った野茂。とにかく納得できなければ所構わず、人を選ばずで絶対に己を曲げない。その矜持に支えられたセンチメンタリズム、ナルシシズムの容量も半端じゃなく、新人年の“ノーヒットありラン{※3}”に天覧試合でのサヨナラ被本塁打(背番号「3」参照)、から'72年最後の巨人戦“王貞治〜長島茂雄に連続被弾”まで「悲壮美」に殉じた村山、試合中右肘に打球を受けても応急処置のち完投、頭部直撃で頭蓋骨骨折はさすがに降板したが、その後中7日、中4日、中2日で3連勝{※4}した野茂、哀切とは無縁に思える別所も旧制中学時に、試合中左腕骨折しながら白布で吊って続投、サヨナラ敗北も翌日の新聞で「泣くな別所、センバツの華だ」と報じられた過去がある。別所と同時代に活躍した「和製・火の玉投手」荒巻も社会人での試合中鎖骨骨折しながら翌イニングのマウンドへ登り、1球目を投げたらその場に倒れた逸話を持つ{※5}。
 その孤高性はウラを返せば“意気にに感じる”タイプでもあって、林32勝、荒巻26勝、木村21勝、村山、野茂各18勝、加藤17勝、池田英16勝、川上14勝・・・はいずれも新人年から主力に収まったケース。故障で7勝止まりの三船も開幕戦先発完封の怪発進。ただ林、池田、野茂、以外は2年目に軒なみ成績を落とし、木村はこの21がそのまま通算勝利数という燃え尽きよう。2年で尽きた林の応え方もすさまじく、'42年はチーム105試合中71登板。541・1/3イニングは日本記録で、44完投も他番時の別所{※6}に抜かれるまで最多。'43年もチーム84試合中38登板、294イニングを投げ20勝。その上防御率が'42年1.01 (1位)、'43年0.89 (2位)、ながら'42年22敗、'43年11敗を喫したあたりに余計“孤軍奮闘”像が立ち上る。援護が得られず耐え忍ぶといえば菊矢、河村、田所、池田英、妻島、高橋重、村田、加藤、荒木大、吉田豊、前田幸、斉藤隆、川越に'50年緒方、'56年伊藤四、'06年一場と弱体チームのエース〜準エースも目に付く。村山、井上善も貧打戦をバックに、の孤立無援組。また無残に散った結果として'50年成田、'71年上田のイニング4被本塁打、'77年池谷[いけがや]のシーズン48被本塁打の日本記録、'58年田所のゲーム7被本塁打のセ記録が、“純情直下”型イメージにダメを押す。
 “意気に感じる”といえば適所を得たら働くのは、移籍着ブレイクの菊矢、緒方、伊藤四、同じく移籍で生き返った鈴木、大島、コンバート成功組の武智{※7}、原田でも証され、アンダー転向で頭角を現した渡辺秀、に別番時サイド改造で本格化した角&斎藤雅、脱番後打者開眼した畠山[はたやま]、変わったところでは「11」着の'50年3登板のみも、翌年ホークス二軍選手で編成した「南海土建」で社会人都市対抗準優勝、久慈賞(敢闘賞)を獲得した野口なんてのもいる。
 しかし何といっても適所得て最もセンセーショナルに輝いたのは野茂だろう。全盛期只中の選手が自らの音頭で米国へ戦いの場を移したのは日本人初{※8}。しかも1年目から13勝で新人王、オールスターでは先発投手を務め、'96と'01年にはノーヒットノーラン。'99年{※9}147試合目で達した通算1000奪三振は大リーグ史上3番目の速さとインパクトを発し続けた。以降吉井、木田、大塚、斎藤隆のOBも参戦〜昇格し、「11」は大リーガー供出番ともなる。
 ところで野茂は大リーグで日本人初本塁打を打った選手でもある。ここで一気に話は黎明期へ飛ぶが、'36年日本の当機構下で第1号本塁打を記録したのが藤井。といってもこれはランニングで、通算で最多安打1度、最多得点2度を数えるようにアベレージタイプの強打者。対照的に通算1092打席で1本も打てなかったのが石田政。'37年春は藤井、秋は石田が二番に入り、控えながら春の犠打王・佐々木に捕手・内堀を併せ“引き立て”番の趣。ただ秋は五番に移った藤井がトップと1差の36打点、投手・菊矢がトップと2 差の13勝、まだ控えながら「ヘソ伝{※10}」山田がデビューと日の目の気配。から'38年秋・佐々木〜'39年山田が盗塁王奪取・・・戦後も安井〜河野が韋駄天の灯を継ぎイメージ滲出{※11}。加えて土屋、鈴木は元、石田政はのち、盗塁王。&島野ものち61盗塁シーズンあり。さらに'43年山田の56、'56年河野の85は各々その時点での新記録(ただし'43年は背番号廃止年)と快速ランナー像輪舞。
 だが'50年、2リーグ分立の混乱を突いて{※12}荒巻、別所、緒方と3人の20勝投手が生まれ、その後石川克、田所、'56年伊藤四、'57年木村と準エース(伊藤はエース格)投手が続き、荒巻、別所後の“大エース”の座を村山が継いだ辺りで完全に投手番イメージが主導となる。野手、精一杯の抵抗は'46年小島利、'47年藤井、'48年武智、'49年伊賀上、'50年大岡でならした助っ人像、の追録。鈴木、シピン、大島、と一応の成果を示したが、もはや焼け石に水。
 さて、村山によって悲哀に染まっていく「11」だが、主役を取り巻く面々は“メリーちゃん(渡辺秀)”だとか小兵投手・池田英に超スローボール遣いの拝藤などなごみ系が多い。だが入団より16、21、15、13、16勝の安定株・池田が'67年練習中に打球を右手に受け、以後に2勝止まりの憂き目にあうと、'69年に村田、'72年村山とケンカ別れのような形でチームを去り悲哀色増進。かわつて出てきた三沢、加藤、高橋善、池谷、
佐藤義・・・に「ライオン丸」シピンは別所を懐かしむかのような豪放揃いで、村山=悲哀イメージからの転身が図られる。
 さらに'83年{※13}、甲子園で人気を博した荒木大、畠山参入。これで完全に悲哀色を払拭し、「11」はアイドル番へと趣を変えた。のだが、その荒木が3年目〜6、8、10勝を挙げながら翌'88年肘痛離脱{※14}。すると'92年まで、長期リハビリ生活に突入してしまい、(畠山も2年目5勝=規定投球回到達、以降0勝で)引導を渡した張本人の手で「11」は悲哀番話へと回帰する。さらに本元・村山が監督で復帰し、'88年6〜'89年5位で退任と、悲哀の色ますます復調。
 が、翌'90年〜斎藤雅&野茂が各リーグを代表するエースとして猛席巻。加えて'92年、高校時荒木の控え投手だった{※15}石井丈が15勝&日本シリーズでも2完投勝利でMVPダブル受賞店。に惹き付けられるように、荒木も終盤1541日ぶりにマウンドへ登り、そのまま2先発(1敗)、'93年8勝〜日本シリーズ初戦先発勝利。と鮮やかに復活。それも周囲の感傷に浸らされず実に淡々と復帰したことで“アイドル”の面影も堅持。
 この後'94年吉田豊、'94と'96年紀藤、'94と'96・・・ '98'99年斎藤隆に'02年〜川上がエースとなり(川上以外は“エース格”だが)、'05年ついにアイドル番の引き継ぎ手・ダルビッシュも得る。そのダルビッシュが2年目に早くも“エース級”の働きを見せ、3年目は15勝5敗12完投で堂々エースに。'06'07年日本シリーズでは川上と、史上初の2年連続同一投手同士初戦先発('07年は相完投)を果たし、「11」を最新の日本球界“リアルタイムエースナンバー”に刻字。「野球にメンタルなんか関係ない」と言い斬る新旗印の誕生で、「11」イメージも大幅転回中。
【2008年開幕時点】
 
{※1}投球時の苦悶顔&フォームの躍動っぷりが五輪マラソンの覇者エミール・ザトペックに喩えられた。
{※2}背中を向けてから反転する投法が竜巻[トルネード]に喩えられた。村山同様、フォークが武器球。
{※3}無安打(&14奪三振)ながら、四球と2失策がからんで2失点(これが巨人戦初勝利)。
{※4}3連勝目は'93年の最終戦。延長10回完投で17勝目を挙げ、最多勝ゲット。この年は開幕戦も直前にケガをしてぶっつけ登板、完投勝利を挙げている。
{※5}この両例は“無番”でのものだが、'60年早慶戦では早大の「11」安藤元博が7日で5完投計47イニング(ちなみに早大四番はのち「11」着する徳武)。また高校球界で、'80年荒木大輔、'83年桑田真澄の両1年生投手が決勝戦までほぼ1人で投げ「11」敢闘像に寄与。
{※6}'47年に47完投。'89年こちらも他番時での斎藤雅11連続完投勝利、ともども日本記録。
{※7}元々遊撃手〜投手兼務、から当年は正遊撃手。翌年二刀流復帰、その後正一塁手に。
{※8}“峠過ぎ”か“解雇されて”か“留学”での前例はあり、'72年「11」脱の高橋重もその1人。
{※9}くしくも当年は「11」との邂逅を果たした年……他に'01、'05年と着け計30(通算123)勝。
{※10}フライを決まってヘソ前で捕球した守備芸人。当機構一著名な左投げ右打ち
選手でもある。
{※11}荒巻も'50年日本シリーズでランニング本塁打、の俊足。また菊矢は'38年秋三塁打王。
{※12}捕手の一団も訪れたが、結局内堀からのバトンリレーは辻、目時、で幕。
{※13}またこの頃より、“切り札火消し”専従で'81年〜角、'82〜'85年森繁、'82'83年佐藤義、'89年吉井、'89〜'91年紀藤、'97年〜大塚、'01'02年斎藤隆、'03年〜森慎、'05'06年久保、'06年高津と一定浸透・・・この元祖は'59年55登板4先発で17勝した荒巻(背番号「24」参照)。
{※14}この前々'86年森繁も肘痛離脱〜フランク・ジョーブ博士より執刀、復帰と同経路を先行。
{※15)}因縁といえば'41年春の甲子園大会決勝で投げ合ったのが林と玉置(玉置方が勝利)。
【2008年開幕時点】