2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

【2008年開幕時点】

 

「闘将」江藤に「ミスターロッテ」有藤[ありとう]、「ミスター赤ヘル」山本浩、「若大将」原が居並ぶスターナンバー。
 古くは山口、から高田、島本講、梨田、原、吉竹、田尾、浜名に現役では平尾、相川、江川、の“プリンス”系の甘マスクもスターの系譜に彩りを添える。
 一方で「ケンカ八」(山本八)、「殺し屋のリュウ」(柳田)、「心優しき暴れん坊」(大杉)、「マシンガンの大崎」(大崎三)、「ライフルマン」(船田)と物騒な仇名の持ち主もいて油断ならない。
 選手引退後に「寝技師」(根本)、「CIA長官」(島野)と謳われたコワモテのご両人がいるかと思えば、「仏のトクさん」(原田徳)、「仏のゴローちゃん」(遠井)もいる。「兄[アン]ちゃん」(野口)と気軽に呼べるものもあれば、「坂崎大明神」という畏れ多いものもある。他に「クマさん」(後藤次)、「トラ」(広沢)、「ゴリ」(今江)、「とんぼ返りのチャボ」(島田誠)や、独特の全身脱力フォームから「こんにゃく打法(の梨田)」と付いたりで多士済々。「世紀のトレード{※1}」当事者となる「打撃の職人」山内と「精密機械」小山、元タイガース同僚の「ヒゲ辻」(辻佳紀)と「ダンプ」(辻恭彦)が揃うのも可笑しみを誘う。
 さらにスゴ味を感じさせるのが守備に関するキャッチフレーズで、「逆シングルの白石」、「背走のツボやん」(坪内)、「回転捕球の長持」、「塀際の魔術師{※2}」(高田)。加えて「バックトス{※3}」の使い手に半田、鎌田がいて、前記「仏のトクさん」は安打性の打球を右翼フライに変えてしまうポジショニングの達人。守備位置は違えど仁志[にし]も安打性を二塁ゴロに変える名手として馳せた。また山内は通算175補殺(≒送球アウト)で外野手1位。154で同2位の山本浩は通算4637刺殺(≒捕球アウト)も第2位。127で(補殺) 7位の原田は通算48併殺で外野手最多。
 他に黒田、森、平野、礒部も強肩、疾走系では山口、吉田勝、デービス、島野、島田誠、吉竹、に後藤次、江藤、山本八、彦野、波留の体当たり系譜もある。
 「名詮自性」史からややズレたが、ではニックネーム頂戴者の第1号は誰か? となると驚愕の事実が浮かび上がってくる。現在につながるプロ野球、の原点である'34年日米野球。その第9戦で0-1で敗れたものの、米国強打線から三振の山を築いた「スクールボーイ」沢村栄治。その沢村がこの大会でつけていたのが「8」だったのである。
 その由緒に沿うように、水原(は「八」だが)〜山口、坪内、野口、戸倉、山内、山本八、大和田、桑田、江藤、坂崎、森、有藤、山本浩、島谷、大杉、原、松永、広沢、藤井、片岡篤、鈴木健、磯部、中村、ローズに投手で{※4}黒尾、大崎、小山と中枢選手に継がれてきた。
 プレースタイル別では当初、白石、濃人[のうにん]、山口、坪内、鬼頭、玉越、本堂、後藤次、平井、原田徳・・・の俊足一・二番タイプ(山口、鬼頭、本堂は中軸)が続いたが、'50年戸倉が開幕戦四番でプロ初打席本塁打=パ・リーグ第1号の狼煙を上げると、山内、大和田、桑田、江頭・・・と主砲続々登場。山本八、に間々で長持、鵜飼、坂崎、堀込、早瀬、吉田勝('65年)、森、柳田('68年)も中軸〜準中軸。渡辺一、渡辺博、遠井、十時[ととき]、小西、西山、池沢は代打役。
 で、河内[こうち]、バルボン、半田、丸山、船田ぐらいとなった一・二番を圧倒(平井も'51年〜七番)も、'68年、東京六大学記録の127安打&48盗塁(盗塁は当時)したスター・高田が入番。1年目から二or一番で打率3割(規定若干不足)&三塁打王&23盗塁、日本シリーズMVP。以後、'73年まで日本一を味わい続ける強烈楔[くさび]を打ち込むが、'69年より、こちらも走攻守揃いのスター・有藤が中軸着座し相対。さらに'71年〜島谷、山本浩のシブ系中距離砲(=当時)の中軸準定着。五番期待のエメリー、クリスチャンは代打役の内田とともにフォロワー編入も、'74年島谷(=当時は二番)がチーム14年ぶり優勝を迎えると、'75年、山本がまずオールスターで2発〜球団初優勝を、首位打者&MVPで添えスター打者の仲間入り。以後、“不動の四番”に。'78年には大杉が球団初優勝に四番で寄与の図を再現。島谷も移籍を契機に'77年初3割(パ2位)〜'79年100打点超(同2位)で中軸完全定着。前後して'76年に山村が6本でプチ孵化(〜が翌年0本)。'78年デービス3割弱、18本、で助勢。
 対する俊足一・二番方は'80年島田誠が3割&38盗〜'81年も、3割(2位)&42盗(2位)してチーム19年ぶり優勝を牽引。だがセの覇者・巨人の大型新人、原もチーム最多の22本&日本シリーズでも2本を放ち日本一へ貢献。翌年より看板打者に。同'81年には田野倉も14本で準孵化(〜が以降低迷)。そして着前年に日本人初の1試合両打席本塁打を記録した松永が、'83年〜コンスタントに3割&20本前後、両打席弾は「8」で5度、二塁打王&三塁打王各3度、'85年には.320 26本38盗を残し、有藤、山本浩から3拍子スラッガー像継承。
 しかしその松永が同僚・福本豊のあとを受け一番着座〜'89'90年各100超での連続得点王。“一発もある”高田〜島田に河埜[こうの]、のスケールを拡張してリードオフマンの座を継いだ。が、一方で広沢が入れ替わるように中軸入り。岸川、藤井、鈴木健、片岡篤・・・磯部、オーティズ、ローズも定着〜準定着し、ホワイト、ベイス、マックス、中村はフォロワー域も、田尾、大野、彦野、'92年鈴木、'01年〜藤井、佐藤真、'04年〜森野、片岡、平尾の代打勢が間隙注入。そして、'92年広沢がチーム14年ぶり優勝〜翌年15年ぶり日本一へ四番で寄与。鈴木も四番に着いた'97年、史上2例目の優勝決定サヨナラ弾を打ち上げ、'01年礒部は五番(登録捕手も外野でレギュラー)で95打点を挙げ12年ぶり優勝に貢献。
 また仁志、李[リー]が“突貫系一番”を継ぎ、下位打順も多かった久慈、吉田剛、浜名の“つなぎの二番”とはある程度キャラ分立…・・・するが'07年谷佳が“強打の二番”全うで再び混沌化。
 そしてこの“つなぎの二番”群に金子を加えた面々は遊撃の名手(浜名は'98年〜二塁)で、往年の白石〜平井リレー(に濃人、片山、村瀬、今岡='38年秋、木村='43年、田中='47年、宮崎、水上、桑田='64'65年、もレギュラー)のイメージ復古化推進。また木村='42年、本堂、後藤次='48年、福田、島田雄、バルボン、半田、鎌田、河埜、田野倉、辻、仁志、浜名、オーティズ='03年の二塁は器用でスマートなタイプが多く、滝内、藤本、船田、久保、行沢[ゆきざわ]、平尾は内野全般をバックアップした。
 一方で梨田〜谷繁、清水将の強肩者に、池田='43年、芳村='50年、根本='53年、大橋='70年、辻佳、相川の捕手陣は、'60年まで正捕手格の山本八が'61年〜一塁、'63年〜中堅へ、'62年正捕手・江藤も(それ以前に就いていた)左翼に戻り、同・吉沢も(それ以前に着けていた) 「9」番へ。'42年野口、'01年礒部は各々一塁、右翼へ回り、他ポジションで実績マークの後藤次は本来捕手と思惑から離れる傾向にある。
 という中、最盛況を保つのが水原〜三村、ブリットン、河内、桑田、船田='68'69年、丸山='68'69年、有藤、島谷、高田='76〜'78年、山村、原、松永、片岡篤、鈴木健、今江、中村のホットコーナー像。エリート選手も多いことから“エリート三塁手”が雛形にもなっている。そして選手会長を歴任し、いずれは監督、というのも「8」の外伝イメージ。
 だが過去の「8」出身者の監督戦績は(「八」の水原以外)芳しくない。優勝経験者は濃人、山本浩、梨田(各1度)、原(2度)といるが、濃人はその翌年放棄試合をおこし退任、山本も以降7年全て下位、加えて梨田は'04年、近鉄の最期を見届けさせられ、原も1度目優勝の翌年「人事異動」で辞めさせられる薄幸ぶり。一方で3位以内未経験者も戸倉、白石、有藤、田尾といて(計20年)、根本は11年で3位以内一度。だが根本は西武で広岡達朗、ダイエーで王貞治へ監督移譲後編成の長となり黄金期現出。
 そしてこの“お膳立て”では山内が打撃コーチ、島野がヘッドコーチ、丸山、高田が編成長、滝内は二軍コーチ、坪内は助監督〜ヘッドコーチ〜二軍監督〜寮長、濃人、今西、長持、渡辺博、江藤はアマ球界指導者で名声を得た{※5}。案外、次期監督に“お膳立て”する気持ちでいたほうが吉の目が出るのかもしれない。
【2008年開幕時点】
 
{※1}'63年末に断行された、「四番打者」と「20勝投手」による初の看板選手同士のトレード。
{※2}元々は平山菊二が本塁打性の飛球を左翼フェンスに手をかけジャンプ捕球、の妙技でもらった異名。高田は“サードのうしろにもう1人サードがいる”の形容通り、左翼ライン際のゴロを抜かせず、あるいはクッション処理の巧みさで二塁打性を単打に留め、次代襲名した。ちなみに今江の「ゴリ」にも国貞泰汎という先代がいる。
{※3}手のひらを体の外側に向け投げるトス=平泳ぎと同要領。多く併殺時の二塁→遊撃送球の際に使われる(ただし鎌田は三原脩監督より封じ手指令を受け'68年以降披露僅か)。
{※4}他に'40年長谷川、'46年今西&清水秀、'50年干場がサポート的位置で10勝前後マーク。
{※5}さらに(ドン・)ジマーも帰米後大リーグで13年計790勝の名称、ながらリーグ制覇0。だが'96〜'03年ニューヨーク・ヤンキースで6度、ワールドシリーズ制覇も4度達成で“名参謀”としてよりより高評に(ちなみに「影響を受けた」と述懐する東映在籍時の監督(ボス)は水原)。
【2008年開幕時点】