【2008年開幕時点】
スケール大の一番打者系譜が飛び抜けて豪華。 初回先頭打者本塁打の通算数1位の福本(43本)、2位の真弓(41本)を始め石毛、柴田、野村が10傑入り。 「7」では2年目(=2008年開幕時点)だが仁志も7位。'06年まで{※1}のシーズン記録=8本を'72年福本、'86年石毛が残し、'03年今岡は初球を5本(含め'02'03年で計12本、同期間松井{※2}も14本の量産ぶり)、'80年真弓はダブルヘッダー時に1日で2本を記録した。極めつきは'62年衆樹[もろき]の(これまた'06年までは史上唯一だった)開幕戦“プレーボール”本塁打。 '04'05年には(この時点では「7」OBながら)松井が大リーグで2年連続開幕戦初回先頭弾('04年はデビュー打席の初球)とこのテの話題に事欠かない。
大村の16本は現役パの最多で仁志、西岡、片岡に、二岡、田中浩、李炳圭[イ・ビョンギュ]も後継資質は充分。
その源流をたどっていくと与那嶺にぶつかる。本塁打のなじみは今1つ{※3}も、アメフト仕込みの戦闘的走塁{※4}で日本の野球人の“鱗”を落とした猛々しいリードオフマン。同時期にいた三塁打王{※5}・金田、俊足一塁手・川合、に宮崎、金山が“下地”を作っていたこともあってスプリンターイメージが一気に芽を吹いた。
そこへ豊田が割って入ってくる。与那嶺の猛々しさそのままにスタンドに放り込めるパワーをも兼備。翌年、今度は与那嶺のスピード像を継承した鈴木武が来番し、当時パ新となる71盗塁(ちなみに当時セ記録は金山が脱番後の'50年に作った74)。対照的な“二番ショート{※6}”がインフィールドに新風を送り込む。「対照的」とはいえ豊田も'57年までは25前後を走っていたが、その後三~四番へと移行するにつれ減少。と同時に、町田{※9}、森、緋本[ひもと]、矢頭[やとう]、衆樹、並木、山本、長田といった強打者が続々参入。豊田以前をふり返れば杉田屋、鬼頭数、岡村、山川、金田、常見の巧打者揃いだから、これは大きな転換期。
その強打席巻ムードの1つの沸点となったのが'62年、大リーグで2度の本塁打王に輝いたドビーの入番。だが一度選手引退してからの来訪で、活躍するにはトウがたっていた(72試合で10本塁打)。それでもご威光は健在とみえて、バーマ、アルトマン、レオン、スミス、ポンセ、ボーリック・・・と助っ人系譜が立ち上がっていったのは「7」にとって収穫大。
一方与那嶺、金田 ('51~'54年)以降のリードオフマンは、強打のサード・西園寺[さいおんじ]を経て、福本&柴田時代を迎える。それぞれ、リーグを代表するトップスプリンターとして日本シリーズに“一番センター”で顔を合わせること3度(&福本別番時もう1度)。'70年代の「7」像はこの2人があらかた塗り固めた感さえある。その上'76年~藤原も一番で揃いイメージフィーバー{※10}('70年小川亨も一番)。またこの安定期に乗じて真弓、石毛を誘い込み、与那嶺と豊田のイメージ融合(=強打の“一番ショート”)を企てれば両選手とも大成功。“一発もある”西園寺、柴田、福本の年20本弱から一気に30本弱までもってきた。同時に“強打のショート”の一点抽出を託された宇野が'84年37本でキングに輝き、翌'85年はショート年間最多となる41本をマーク。'60年代後半より白[はく]、 小川亨を、池田、福富、長崎と巧打の主は得るものの、大砲は助っ人以外、昔名前の大和田、柔田ぐらい、という状況を打開した。
さらに3選手+準レギュラー・広瀬の活躍でショート像が再興。真弓が二塁に転じた'83年には水上が加わり、その水上と石手が三塁へ転向すれば湯上谷[ゆがみだに]、野村、南渕が出て、続いて松井、二岡、に井口、今岡(=後者2人は'98'99年の2年間)から西岡・・・とひっきりなし。また真弓、石毛のあと“一番ショート”を継いだ野村、松井が、各々'95、'02年にトリプルスリー(3割30本30盗塁)を達成し、与那嶺と豊田の融合イメージは1つの完成形を見た。
そうなると“イメージの解体”が始まるのは、これまでにも何度か見られた「7」の特徴で、'00年より野村が三塁、井口が二塁、今面も二塁~三塁、とコンバートが頻発。並びに李鍾範[リー・ジョンボム]、進藤、浜名、川相、水口と“元レギュラーショート”達が次々来番してショート離れを助勢。井口、今岡は二塁期間の方が長く、新鋭・片岡&田中浩、に'07年米球界での松井(→'08年再離番)とセカンド像の躍進顕著で、もうショートというより“二遊間”番[キーストン・ナンバー]の趣。'05年西岡のショートでベストナイン、セカンドでゴールデングラブ、受賞はその象徴事例だ。
また一方で宇野以降、斉飯、吉村、小川達、中島・・・と得た日本人大砲方は、吉村が'85年から3年連続3割、本塁打も16→23→30本と順調に成長。'88年7月には通算100号を放った・・・が、同試合で飛球を追った際にチームメイトと激突。1年以上の療養を余儀なくされ、最終的に通算964安打、149本と完全復活には程遠い成績で退いた。他のメンバーも未完に終わり、吉村の'90年優勝決定サヨナラ本塁打、にその前'89年新人・中島の開幕戦サヨナラ本塁打、'97年には小早川が開幕戦で3打席連発と“一点豪華”型の大仕事はあったものの、誰も本格継承たり得ず。鈴木尚、井口、今岡、二岡、坪井・・・の巧打流れに取り残される形となった。仕方なく巧打の主に“ホームラン打者”の蜜語で眩惑するも、鈴木は未曾有の大スランプに陥り、二岡は'03年29本のあと故障がち、井口は'01年30本のあとも25前後で落ち着いていたが'05年大リーグへ。一番・松井も'02年36→'03年33本のあと渡米。だがそんな中、今岡がアベレージ打者から一転、'04年28→'05年 29本(&'05年147打点)と長打者覚醒。'05年には元本塁打王・山崎武が着番し25→'06年19本で推進加速。が、肝心の今岡が'06'07年計11本と絶不調。かわって二岡が'06年1試合2満塁弾含む25本と再参画・・・も'07年20と伸びず。
という状況を破ったのは後方支援然だった山﨑。'07年39才にして自己最多となる43本(&108打点)と大爆発し自身11年ぶりキングを獲得。'08年、さらに後続候補・濱中を招集した。
と、大筋で思惑通り{※11}の変化[へんげ]ぶりだが、唯一の“やり残し”が捕手系譜の立ち上げ。'63年着
の逸材・大橋は森昌彦の牙城を崩せず、広田、新宅もサブ止まり。新世紀に谷繁、日高と既成レギュラー入番も各々、監督指令で強制変番、球団統合に際し改番、でまさかのふり出し送り。5人同様の“パッジ{※12}”捕手が米国で大立身した追い風は(再び)海を渡ってくるか。
【2008年開幕時点】
{※1}'07年高橋由伸が衆樹以来の開幕1回表初球本塁打~新記録となる計9の初回先頭弾。
{※2}'02年の88長打は日本記録で、うち本塁打36は'85年真弓の34を抜く一番打者記録。
{※3}とはいえ通算82本。'56年セ2人目の開幕戦初回先頭打者本塁打マーク・・・ちなみにセ1人目は金田('55年)。通算55本塁打で与那嶺以上に本塁打イメージ薄かった。
{※4}高校時アメフト・ハワイリーグで日系人初のMVP~'47年サンフランシスコ49ers入団→利き腕故障で野球へ~翌'51来日、初打席でバント安打を決め、“バント=送り”だった日本野球の観念を変えた。出塁すれば大幅リード~砂をまきあげ帰塁、にフライングタックル・・・など塁間、塁上をスリルで埋めた先駆的存在。ホームスチール11は日本記録。
{※5}'46年のイニング2、'51年シーズン18はともに日本記録で通算103も当時1位(現3位・・・1位は福本115)。この人も与那嶺に劣らぬファイターで、頭部死球に構わず出場を続けたら翌日試合中に失神、即「絶対安静」が言い渡された、という逸話を持つ。
{※6-ⅰ}ただしショートイメージ自体は鈴木清、中村栄、松本によってすでに整地済み。
{※6-ⅱ}豊田より派生の“三番打者的二番”は高林、西園寺、白、小川亨、福富、長崎、石毛、渡辺、松井、井口、二岡、坪井と継ぎ(小川外は短期)、今岡、鈴木尚も一時赴任。
{※6-ⅲ}のち好手となる豊田もデビュー時は拙守のイメージ強く'53年45失策。翌年は鈴木武が44失策。'55年外野に伝幡し山田利12失策(外野手日本記録。前後するが'50年安井27失策も二塁手セ記録)。'72年伊原は23失策して翌年正三塁の座を奪われ、'73年には池田が「世紀の転倒{※7}」、'81年宇野は「世紀のヘディング{※8}」となぜか派手ミスが乱発。
{※7}8月の巨人戦で9回2死からの“ウイニング飛球”を追って転倒。ボールが転々とする間に2者が還り逆転された。結果的にこの年のペナントを0.5ゲーム差で巨人に獲られたことで、後々になって「敗因」として掘りおこされてしまった事件。
{※8}7回2死での飛球がおでこ直撃、ボールが転がる間に一塁走者生還。159試合連続得点中の巨人を記録ストップさせるべく、完封ペースだった星野仙一がグラブを叩きつけたシーンとともに、お茶の間に何百回と流れたであろう「珍プレー」の起源。
{※9}金田正一との遠投勝負を制した猛肩の持ち主。この選手の登場以後、森、矢頭、衆樹、並木と強肩外野手続き。金田、与那嶺以後の忍者系には柴田勲、福本、大村。
{※10}また福本と藤原はクリップエンドが極太の“すりこぎバット”を愛用する絵柄も共通。
{※11}驚くのが浅岡、森井、野口による“規定投球回到達”を'69年鈴木皖が再現したこと。
{※12} (ずんぐり体型の意、にして)'91年19才で大リーグ史上最年少捕手としてデビュー~以降強肩&強打の“当代最高捕手”評を長く獲得したイバン・ロドリゲスのニックネーム。
【2008年開幕時点】