2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

【2008年開幕時点】

 

 どちらかといえば“守”よりも“打”イメージが強い番号である。近年も清原、中村紀、和田一、町田康、山﨑武、セギノール、栗原、松田、 ガイエルと長距離打者が目立ち、'08年ラミレスも加わった。村上嵩、岡崎、藤本博、堀、新庄、濱中と中距離型もにぎやか。
 そして何より「5」の特性は、守備の人と見せかけて打も達者、なタイプが多いこと。辻のように守備先行だと思っていたらいつの間にか一番に定着していて、気がつけば首位打者になっていた、という感じ。(首位打者は獲れずも)石井琢しかり、井出しかりである。
 その伝統は黎明期の苅田(のちの名二塁手も“五”着番時は遊撃手)、尾茂田、上田に始まり、仰木、前田益、黒江。移籍の矢ノ浦、国貞、基を挟んで河埜[こうの]、角、弓岡。さらには辻、仁村、清水義、土橋、石井琢、井出、渡邉。から'08年加入の平野、稲田とつながっていく。思わず“守備的MF{※1}”と表現したくなるオールマイティーさ。奈良原、沖原もこの後移籍を機に、守備の人イメージが色眼鏡であると証明した。番史を通じても守備オンリーは、レギュラークラスでは広田、野口昇、内堀、長谷川、長沢、阿南、北村、勝呂[すぐろ]くらい。
 一方大砲タイプは、伝統的に四番で長続きしない。藤本勝、ロバーツ、リー{※2}、 中村紀、セギノールの4~5年が限界で、飯島、藤井、ロジャー、 大島、清原が大体3年(「5」在番時)。高卒3年目の'58年にレギュラー獲得~'59年四番定着~'60年2冠王~'61年打率初3割~'62年優勝経験、日本シリーズで2本6打点と順調だった藤本にして、翌'63年遠井吾郎に四番&一塁の座を奪われ衰勢。'64年日本シリーズでは3代打2三振に終わり、'67年30才で選手引退した。
 対照的に同時代、10年以上五番に座り続けたのが葛城[かつらぎ]。実力は三or四番でも不足なく、'58年には最終打席本塁打、で全日程を終えた暫定3冠王・中西太に打点1差を付け単独戴冠、の猛者だがオリオンズでは山内和弘、榎本喜八に次ぐ{※3}、ドラゴンズでは江藤慎一、マーシャルに次ぐ“トリオの3番手”(タイガースでは出場僅か)。こちらは“1番手”候補ながら藤井も総体的に似た位置にいた。この“チームNo.3の強打者”役というのが「5」が最も輝いてきた仕事場で、五~六番辺りで勝負強さを発揮するタイプには伊藤健、加藤正、中谷から岩本、岡本、高木、穴吹{※4}に伊藤勲、ジョンソン(巨人)にシェーン{※5}~ギャレット~デュプリー~ガードナー、それに大島、古屋に、山村、村上嵩、岡崎、仁村、藤本博、新庄、'00年以降の清原、和田と多士済々。水を得た魚のごとく生き返る。岡本、高木、デュプリー、山村、岡崎、仁村は本塁打数少だが、全体を通じると“粗っぽい掃除屋”のイメージ。
 しかしそれでまとまらないところが“5”の奥深さ。ここに長&単打兼備の中距離型 一・三番タイプの尾茂田、佐藤、矢ノ浦、富田、佐々木が並べばもう洗練された雰囲気になじんでしまう。さすが10進法の真ん中に位置する数字だけあって無性格。重くもなく、軽くもなくで全くつかみどころがない。逆にいえば実に均整がとれている。
 それは「5」選手の使い出の多さにも通じており、'37年春 大友、'40年清水秀はともに投球回&打席で規定到達。特に清水は投げてはエース格として308回[イニング]12勝23敗(防御率1.75)、打っては五番でチーム3冠王{※6}(.227 2本 32打点)、10三塁打はリーグ2位と奮闘。'46'47年には一言が連続規定打席到達('46年チームトップの18盗塁)&9勝20敗。規定投球回には達さずもチーム試合数105〜119で149〜105回だから主力級。他にも松元が'37年秋に投手で規定到達→'38年春は捕手で準レギ。 '38年秋 鈴木芳は投手で規定到達&野手出場時と併せ打でも半~準レギ。'54年には真田が投手兼代打で7勝&1本 29打点のユーティリティーぶり{※7}。打オンリー組に目を移しても、'39年鈴木秀が当初は外野〜途中移籍し「5」番着、後は捕手or一塁( + 三塁、外野も各1試合)でトータル準レギ格。その後裔ともいえる高橋博が'72年三塁で準レギ→'75年捕手でレギュラー、間の'73年は内外野控え~'74年プラス捕手の控えもこなし、アトラクション的に1試合9ポジションも経験。また'49年田中は二塁、三塁、外野を、'81年大島は外野、三塁、一塁を一定数守っての規定到達。さらに堀は'94年まで二塁('94年は時々外野)~'95'96年遊撃〜'97年二塁〜'98年外野~'99年二塁('96'97'99年は時々三塁も)を守り当期間'94年(=も準レギ)以外全て規定到達。藤本博も'92年まで三塁('90年時々一塁)~'93年一塁~'94年二塁(時々一塁)~'95'96年一塁レギュラー (規定到達は'92'93'95年)。土橋も'95年二塁(試合終盤外野)〜'96年外野~'97'98年二塁('96'97年時々遊撃、たまに三塁も)で当期間'97年(=もレギュラー)以外規定到達。控え組では町田康が外野メインで一塁、三塁、二塁をカバー。この町田、に先の藤本博、1試合だけだがアリアスも、の“打撃優先オーダー”時における鈍重型のスクランブル二塁(&普段は三塁の中村紀スクランブル遊撃)の図は「5」の引き出しの多さにさらに幅をきかせた。もちろん内野万能守備要員の前田益('68年以降=それ以前は三塁レギュラー)~井上、に浜崎、坪井、水上、沖原、斉藤秀、内外野OKの小[こ]淵、渡邉と正統のユーティリティー選手もいて、イメージの中核を固める。三塁へ3年座って地位確保した石井琢が、そこを発ち遊撃に居を構えにいった“冒険”も、「5」番史的には奇跡でなく軌跡、というぐらい柔軟な往来が“ありふれた光景”化している。
 そしてそれは退番後も健在で、鶴岡、西本、仰木が監督で成功を収めた他に、ジョンソンとラフィーバーは帰米後大リーグ監督〜ジョンソンはオランダ、米国の、ラフィーバーは中国の代表監督も歴任。真田は高校球界で甲子園優勝監督となり{※8}(この時の正捕手は和田徹)、濃人は社会人・都市対抗で準優勝指揮2度{※9}(&塩見が選手で退団翌年同大会優勝~次年プロ復帰)。また上田が審判、大沢は大学で長く監督&講師、飯島は人気解説者~コーチ(背番号「40」編参照)で名を挙げる。加えて名投手指導員・近藤(に高校野球監督として斎藤雅樹を鍛えた内山)、名参謀となる黒江(に仰木、近藤(☜背番号「61」編参照))、松井、高代[たかしろ]、名打撃伯楽者の岩本、佐々木、山村、金森。フロント要職に就いた野崎、阿南(=は優勝指揮も1度)に不本意な形で選手断念後名スカウトに生きた櫟[いちい]、片岡(背番号「16」「26」参照)等々{※10}輩出。
 数だけなら他の1桁番と大差ないが、「5」の特筆点は選手引退後の方が名声を得るパターンが多いこと。 西本、仰木に、濃人、近藤、さらに阿南、松井や、山村、金森の両打撃コーチ。片岡スカウトもそうだろう。“日本での評価”に限ればジョンソン{※11}(巨人)も加わり、タイトルホルダーながら鶴岡も選手実働8年(主力で6年)と短期。と実に先見性に富む。ものいわぬ「5」の内を代弁すれば、選手引退は野球人としてまだ5合目、といったところか。うまくもないシャレだが、そういう半可なところが「5」番らしい。
【2008年開幕時点】

{※1}サッカーのポジション名。“ボランチ”の呼称でほぼ統一されているため現在は別称[リザーブ]の身分。
{※2}弟・レオンへ半〜落合博満へ全委譲・・・その成果は4000打数以上で1位の打率.320に銘記。
{※3}同トリオは“三番=首位打者(榎本)、四番=本塁打王(山内)、五番=打点王”イメージの原型。また'50年16本&三振王の三村は粗い二番の元祖・・・“打がウリ”二番自体は巧打の金田正泰が先達(→'53年岡本伊三美が一時強打二番→'54~'57年豊田泰光が豪打二番発現)。
{※4}新人年開幕戦でサヨナラ本塁打も伸び悩み、それは当時最多タイの13代打本塁打として残された・・・のち(高井保弘が27へ更新後)町田康が20(「5」では19)のセ記録樹立。
{※5}'75年日本初の1試合左&右打席本塁打・・・セギノールの通算7(「5」では4)は最多数。
{※6}ちなみに前年着・鶴岡も.285 10本 55打点でチーム3冠王&新人ながら主将と奮闘。
{※7}ただし松元0勝、鈴木1勝・・・他に'36年(主に春大会)ノース、'38年春 釣[つり]、'38秋〜'39年望月、'39年大宮、'48~'50年近藤、'50'51年内山、'54年杉川に他年時清水秀が準〜主力。
{※8}翌年プロ球界復帰し、3球団で投手コーチ・・・うち2球団で西本の「右腕」となった。
{※9}より'60年プロ球界復帰~'61年監督就任、時も1ゲーム差の“準優勝”。別球団へ移り'70年に優勝・・・その両方にコーチで仕えたのが近藤。'61年は投手力≒権藤博の趣も、'70年は救援に八木沢荘六(近藤2軍担当時の'69年にも木樽正明)を据え分業遂行した。
{※10}さらに初の育成選手・西沢が脱番後20勝投手→故障後主軸打者と大成功。また釣、宮崎剛が別機構の国民リーグへ移動(逆に濃人、宮崎仁は同OB)、矢ノ浦、是久はグローバルリーグ、町田行、前田益、井上は台湾でコーチ、鈴木康、金森は日本の独立リーグで監督。さらに新庄が大リーグ入り・・・後も「5」で“宇宙人”扱い(成績はそこそこ)だったが、'05年日本球界復帰後「1」転して“プロ野球界のタカラ”視された。
{※11}'73年大リーグで当時二塁手記録の43本塁打。も巨人では2年で39本 .241 (2年目は終盤2ヶ月に18本で優勝詰め貢献はした) ・・・10年後、大リーグのワールドシリーズ制覇を指揮~オフ日米野球の米監督と凱旋来日(また一旦離番〜「5」再着での栄冠)。
【2008年開幕時点】