【2008年開幕時点】
現在「4」のイメージはすばしっこく小技に長けたセンス抜群の一・二番タイプ、主にセカンド、といったところ。これは高校球児の「4」像ともおおむね一致する。その雛形最後の作成者は大石、正田の両選手。別掲表でも一目瞭然で、2人の登場を機に外国人選手が激減している。かわって現れたのが森脇、山脇、笘篠兄弟{※1}に、酒井忠、柳田[やなぎた]聖、奈良原、馬場、高須、高木、阿部、尾形、飯山…の2人と同系の内野手達。ただ長期盤石レギュラーの後継は未だ出ず、近年再興中の助っ人像に旗印を奪い返される可能性も出てきた。
その助っ人番伝統は、一時期の隆盛が嘘のように'93〜'95年{※2}と完全に系譜が途絶えた。
そこから復活の灯をともしたのはコールズ〜ゴメスの中日勢。特に30本塁打超2度、100打点超1度のゴメスの当たりは大きく、'98年〜西武、'01年〜横浜、'02年〜ダイエーと、ご利益にあずかろうとする追随球団が続出。だが結局めぼしい成果は挙がらず、'03年広島が参戦するも、シーツが守備の人のフレコミだったことから“4の舞”になるのでは? と危惧された。ところがフタを開けてみれば堅守はもちろんバットでも快打を連発。同年後半は四番に据えられた。成功者が2人出て“路線”になればあとは注いでいくだけ。以降アレックス、フランコ、オーティズと続き旗色は確実に変わってきた。また2年目からのシーツも含め、皆従来の助っ人とは趣を異にする脇役タイプ。シーツ、アレックスがそれぞれ巧守備、強守備力を持つ点も併せ、これは大石、正田像との融合形ともとれる。
そこから復活の灯をともしたのはコールズ〜ゴメスの中日勢。特に30本塁打超2度、100打点超1度のゴメスの当たりは大きく、'98年〜西武、'01年〜横浜、'02年〜ダイエーと、ご利益にあずかろうとする追随球団が続出。だが結局めぼしい成果は挙がらず、'03年広島が参戦するも、シーツが守備の人のフレコミだったことから“4の舞”になるのでは? と危惧された。ところがフタを開けてみれば堅守はもちろんバットでも快打を連発。同年後半は四番に据えられた。成功者が2人出て“路線”になればあとは注いでいくだけ。以降アレックス、フランコ、オーティズと続き旗色は確実に変わってきた。また2年目からのシーツも含め、皆従来の助っ人とは趣を異にする脇役タイプ。シーツ、アレックスがそれぞれ巧守備、強守備力を持つ点も併せ、これは大石、正田像との融合形ともとれる。
さて大石、正田の登場以前に目を向けると別掲表を見ての通りの助っ人隆盛時代。そのイメージ源流は'62年のバルボン、ハドリ、バッキーの一斉参上、から。ただハドリの本領発揮は翌年以降('62年11 → 30本塁打)、バッキーは翌々年以降('62年0 → 8 → 29勝)。来日8年目のバルボンも準レギュラー止まりとすでに下降線。またバルボンは'58〜'60年と連続盗塁王のリードオフマン、いわゆる助っ人大砲イメージの元祖{※3}は'63年〜30、29、29本を打ったハドリから('63年30は助っ人の初30本到達)。加えて'63年〜コンスタントに20本前後のロイが、その初年に三番バーマ、四番ウィルソンと“外国人クリーンナップ”を組み{※4}、最大14.5 (9月23日時点で8)ゲーム差からの逆転優勝劇立役者の1人となって“助っ人=「4」”の存在感が徐々に伸張。そしてこの年逆転された側の南海・ハドリが翌'64〜'66年と3連覇へ寄与。さらにはバッキーが'64年29勝〜'68年まで連続2ケタ('63年分も含め通算100 )勝{※5}、'64年はエースで優勝現出。
南海との“大阪シリーズ”では2先発1完投勝利+ 3救援と働き、相対したハドリも.222ながら2本4打点、第4戦サヨナラ本塁打の活躍〜からハドリは'66年もシリーズでサヨナラ弾を放ち、“「4」=助っ人”がスタンダードレベルにまで浸透。
南海との“大阪シリーズ”では2先発1完投勝利+ 3救援と働き、相対したハドリも.222ながら2本4打点、第4戦サヨナラ本塁打の活躍〜からハドリは'66年もシリーズでサヨナラ弾を放ち、“「4」=助っ人”がスタンダードレベルにまで浸透。
から'67年ロバーツ28本、'70年〜ジョーンズ4年連続30本超、同'70年〜ミラーは25分前後を3年、で大砲像が頭抜け、'74年〜マーチン6年平均30本超、'77年〜マニエル4年平均“3割40本100打点超”と量産。'75年来日・マルカーノは平均22.5本も90打点超2度。'80年代はモッカが平均20本強ながら3割超3度〜次着・ゲーリー平均25本強、に'89'90年とディアズ“3割30本100打点”超。そして'72年ソーレル、'73年ジョーンズ、'74年マーチン、'75〜'78年マルカーノ、'78〜80年マニエル、'82年モッカ、'84年アイルランド、'88年ゲーリー(〜'99年ゴメス、'04'06年アレックス、'05年シーツ&フランコ)が優勝に貢献。中でもマニエルは'78年ヤクルト〜'79年近鉄の各初優勝の使者的活躍を見せ、「優勝請負人」と称された。この間日本人選手は同じ土俵ではとても敵わないと、小技二塁(もしくは遊撃)手での“棲み分け”を図る。幸い'49年安井のあと浜田、小坂、柳田利、青野と支流だが流れは敷かれており、篠原でつないだのち、阪本、基と実にスムーズに遂行できた。
だがこの風潮に異を唱える選手が現れる。広島の重量打者・水谷である。'71年にリーグ3位の打率を残しベストナインにも選ばれながら、その後“助っ人の陰に隠れ”る形で出番を徐々に減らし、そこから這い上がっての'76年、6年ぶり規定打席到達、後は当年含め3割5度、本塁打25前後のクリーンナップ打者に君臨。'83年には36本114打点を挙げ日本人「4」の従来像をスケールアップさせた。また逆に'75年〜マルカーノは二塁手としてゴールデングラブを4度受賞し助っ人像を洗練化。過去、バルボン(二塁手)、アスプロ(遊撃手)、ボイヤー(三塁手)と短期散在続きだった“名手”{※6}イメージを改めて顕示し直した。
そして'83年、アイルランドと大石が二塁を舞台にイメージレギュラー争いを展開し、これに大石が勝利。それも60盗塁を走り、前年まで13年間パの盗塁王を独占していた福本豊からタイトルを奪取と席巻(&井上も二塁準レギ、前後の'82'84年五十嵐半レギ)。一方で水谷も既述の大爆発を見せ、'82年〜片平が五、六番で15本前後、&'80年〜川藤が代打定着(それまでは代走・守備要員)と日本人“打の一派”も急進。が、'84年開幕戦で水谷が頭部死球を受けた影響で3本止まり。に対して大石が何と29本も放ち完全にイメージ力(片平は12本)。翌'85年には正田が入番し、'87年レギュラー着座、と同時に首位打者も獲り、この両二塁手が水谷像、のみならず助っ人像も呑み込む巨大勢力へと発展していく。
さて、この時鎮火した感のある日本人強打者像だが、そのイメージが発現したのは水谷から、ではない。実は黎明期、「4」は強打者番号だったのだ。黒沢、前田、大沢と中軸打者が揃い、永沢は巨人の初公式試合の四番。といっても四番を打ったのはその試合だけだが、一塁守備の名手として'38年春までレギュラー(打順は主に六番)。
戦後に入ると強打イメージはさらに色合いを強め、黒沢、大沢、に元打点王の野口と揃い、'46年飯島、'47年森下は各12本でともに2位。'49年来番・大岡はノンプロの雄、八幡製鉄の四番打者。前年にプロ入りした森谷[もりや]も同社出身の強打者で、永利[ながとし]もノンプロの強豪、別府星野組の四番捕手(八幡に所属の時期もあり)。時に大家37、森谷34、永利28歳でのプロ入りで、永利は'50年に西日本に移ってから、だが、3者とも期待通りの豪打を見せた。
2リーグ分立後、その伝統は杉山に受け継がれる。ただ、その他は'54年打率10位の笠原が目につくぐらいで、水谷が再点火するまでの間、流れは途絶えてしまう。それはやはり、'52年夏の大会から高校野球で背番号が正式採用されたことと無関係ではないだろう。もともとが「縁起が悪い」と捉えられ易い数字な上、後述するが黒沢のシーズン中での急死が重なり、何となく着けづらい雰囲気にはあった。別掲表からもそれは読み取れる。しかし高校で「4」を着けた選手ならそれほど抵抗なく受け入れられる。そしてその1期生、'52年夏に法政二高のセカンドとして甲子園に出場した選手が、のち浜田から“二塁の名手”イメージを継いで系譜化を果たす小坂なのである。
なお先述の黒沢は巨人の永久欠番選手。欠番の理由は病に臥した床で「ユニホーム姿で葬ってほしい」と遺したから、とされている。だが「それだけ」ではない。'43年オフに巨人から16名が退団。そのため解散球団から5選手を譲り受けた、その中の1人が黒沢だった。'44年は.348で打率2位、長打率.452はトップ{※9}。中断明けの'46年は川上哲治が復帰する6月まで四番(復帰後五番)でチーム唯一の3割を記録。両年とも巨人は戦力の揃わぬ中で2位と検討。特に'46年は選手の復帰受け入れ態勢が整わず、他球団に遅れをとって「盟主凋落ムード」さえ漂っていた。それを踏みとどまらせた打面の功労者、そういう側面もあり当時の巨人は、在籍わずか2年2ヶ月の移籍選手に対して「永久欠番」という形で報いたのだ。
【2008年開幕時点】
{※1}兄弟同時同番は他に'62年若生忠男、智男の「18」、'69&'73年金田正一、留広の「34」、'02〜'04年三木肇、仁の「35」、'06年〜継続中の新井貴浩、良太の「25」とあり、期間は笘篠が最長。「4」には佐野真樹夫と心、R[リチャード]・キーオとM[マット]・キーオの親子ペアも2例。
{※2}'95年フランコはシーズンでは「21」を着用。ロッテは'03年ローズもキャンプ時のみ。
{※3}その役を期待された、と言う点ではピンカードが元祖。だが下位打順で.187 16本。
{※4}ちなみにハドリも主に五番〜次着・ジョーンズも五番。ミラー、マーチン、マニエルは四番、マルカーノ五番('78年はマニエル五番、マルカーノ四番)。モッカ、ゲーリー、シーツ主に三番、ディアズ、ゴメスは四番、アレックス五〜六番。
{※5}先着・駒田も7年計45勝〜後着・キーオは4年計45勝。武田、藪にも2ケタ勝利あり。
{※6}名手ではないもののロイも'65年まで遊撃手(→'66'67年三塁手→'68年一塁手へ転向)。
{※7}控えで在籍19年はギネス級。その影響[オマージュ]からか以降、五十嵐、田野倉、横谷、青柳、渡辺浩、度会と“切り札代打”は命脈を保ち続けている。
{※8}付け加えれば、'41年小林は出場0。'42年渡辺敬も1試合に出場後、大洋へ途中移籍。
{※9}さらに1試合2を含む4本盗(ホームスチール)も記録。'37年の年間記録6、を加えた通算10は歴代2位。
【2008年開幕時点】