2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

 

 日本球界で初めて背番号「0」を着けたのは誰? 昭和の野球ファンなら「長嶋清幸!」と即答するだろう。だが長嶋からさかのぼること37年前に長岡、その2年後にも太田が背番号「0」で登録されている。ともに役職[ポジション]は「マスコット」(=ブルペン捕手)。なので選手ではない。そしてこの「0」は“無番”を意味しての「0」。のため実際に「0」を着けてプレーした初代はやはり長嶋、となる。
 その長嶋と「0」との出会いは'83年、プロ4年目のことだった。前年に1軍定着を果たした長嶋が、レギュラー奪取への糧として'82年の米大リーグ(ナリーグ)首位打者&打点王のアル・オリバーの背番号「0」にあやかって着けたのが始まり。思惑通り'83年レギュラーをつかむと、'80年代後半まで主に五〜六番を打つ俊足巧打のセンターとして定着。'84年日本シリーズでは第1戦逆転、第3戦満塁、第7戦同点、の3本塁打(10打点)を放ってMVP。同年シーズンでも佳境の9月に2試合連続サヨナラ本塁打、'86年優勝決定試合では初回に先制満塁本塁打で「ミラクル男」の異名頂戴。守備でもゴールデングラブ4度の名脇役。移籍で「0」とは2度離番したが、いずれも1年の時を置いて'92年再会~'94年再々会を果たすほど両者の結び付きは強かった。また、長嶋の成功がその後の「0」、のみならず「00」の侵透をスムーズにした点を考えても、同選手の背番号史に残した足跡は大である。
 さて、現在の「0」は弟分の「00」同様“俊足の一、二番タイプ”の番号となっている。しかし黎明期を見ると(こちらも「00」同様)、長嶋、佐々木、中野、 藤王、野中、 初芝と打にまず特徴のある選手が多い。そして皆若い!(来番時長嶋、佐々木、初芝は22、藤王23、野中24、中野25才)。ここが重要ポイントで当時「0」は“新鮮でかっこいい”番号だったのだ。その上長嶋に続いて'87年佐々木、'88年中野、'89年川相、'93年石井・・・が着初年度レギュラー格となり、'91年吉田剛も半〜準レギ、'84年立石は9年目にして半レギ進境。新人も浜名が1年目から、初芝、種田は2年目にレギュラー格と(これまた「00」同様)即効での躍進続き。
 この“今が旬”の象徴となったのが松浦で、着前年リリーフエースに就きオールスターにも初出場、から「0」着の'88年は中盤より先発転向、15勝(うち救援勝利4)を挙げ、最多勝に輝いた。それまで、シブい印象の濃かった長嶋や、その直系・佐々木から旗頭の座を奪い取り、「0」の花形番への変貌も予感させた。
 だが目論見はあっさり崩れ去る。'88年オフ佐々木が「0」→「3」変更{※1}すると、翌'89年松浦も6登板1時に終わる。 長嶋の出場機会が減り始めた時期とも重なった上、’92年種田「0」→「1」、'94年初芝「0」→「6」、石井「0」→ 「5」、吉田剛「0」→「8」、'95年浜名「0」→「8」とレギュラー陣が相次いで伝統番号へ転出。完全に通例化した。
 「0」の“ノーブランド”性に惹かれた新星達が、成長過程で“伝統[ブランド]”を身に着けたのは当然のなりゆきといえる。ただ一斉に同調したことで「0」=暫定レギュラー期間の番号、というイメージが定着してしまった{※2}。'90年11勝〜'91年9勝と一時持ち直していた松浦が、その後も健在なら旗色も変わったろうが、脱ラッシュ開始の'92年以降(「0」では)計9勝。結果、流れに背を向けたもう1人の川相が新旗手となり{※2}、「0」はシブい印象へと逆戻りしていく。
 ところで、背番号はしばしば期待値、プライドに喩えられる。だとすれば背番号「0」を着けることは、いわば“プライドゼロ”宣言なのだ。これは「0」番選手のプロとしての出自、つまりドラフトでの被指名順位によく現れている。長嶋⇒ドラフト外、佐々木⇒6位、松浦⇒ドラフト外、中野⇒2位、初芝⇒④位、種田⇒⑥位、浜名⇒③位、神野⇒⑦位、万永[まんえい]⇒⑥位、吉田篤⇒1位、諸積[もろづみ]⇒5位、ショーゴー⇒②位、古城[ふるき]⑤位、代田[だいた]⇒6位、川中⇒2位、志田⇒8巡目、金剛⇒9巡目、森山⇒大学生・社会人対象の④巡目、大﨑⇒大・社⑥巡目、荻野⇒大・社④巡目(生え抜きで4年目までに着、の選手対象。◯かこみは1年目着。ちなみに7年目着の川相は4位、5年目着の石井はドラフト外)。と、圧倒的に下位被指名での入団者が多い。中には藤王、野中、吉田剛、吉田篤といったエリートもいるが、いずれも入団時の青写真とは大きくかけ離れての来着{※4}。元主要戦力の島田、石毛、長冨、小関のベテラン含め、皆1軍で持ち場を得るには半端な固定観念[プライド]になど構ってられない状況にあったのだ。だがレギュラーを手に、さらなる飛躍を遂げんとする者にはそれが必要となり、「0」を返上する。そう解釈すれば“犠牲バント”に自らの価値を見出した川相が長く「0」を手放さなかったのもうなずける。後年「6」へと変えたのは、“プライドを持たない”プライドが芽生えた、と読み解けば筋が通る(やや強引だか)。川相後のレギュラー、諸積、木村にしても毎年ライバルがあてがわれる“長期暫定レギュラー”とでもいうべきポジション。持ち変死守のため、プライドを育むヒマなど持てなかったのだろう。
 ただそんな中で異彩を放っているのがショーゴーだ。ドラフト2位ルーキー着にして、初芝以来となる中軸候補者。 ブレイクしていれば、華のあるプレーヤーでもあっただけに、その後の背番号「0」イメージは大きく描[か]き換えられていたと思われる。そしてもう1人の「たら、れば」が高橋光。着前年まで6年間で28安打、から「0」に変わった'04年のシーズン前、四番の筆頭候補に挙げられた。実現すれば“脇役番”から大イメージチェンジとなったはずだが、フタを開ければ“代打の切り札{※5}”。シブい印象をより強める結果となった。
 結局新派の訪れなかったことで、長嶋(一時佐々木)→松浦→川相と渡った旗頭のスタイルがそのまま「0」の既定イメージとして固まっていく。最後の旗頭・川相が古株になるとそれと連動して「0」も、持ち場がすでに決まっているベテラン〜中堅勢のたまり場と化した。'95年吉田篤までは毎年コンスタントだった若手(25才以下)からの触手も、その後'98年ショーゴー、古城まで2年空き、次に'03年志田まで4年空き、次に'06年仲澤、森山まで2年空くという状況。だが'07年、 一挙6名もの新メンバー参入。若手は大﨑だけで、20代後半の選手がほとんど(佐藤は30〜'08年31才。また志田、庄田とも'08年29才、木村、小関は30才超)だが、それでもイメージには余白が生まれ、閉塞感はとりあえず緩和。
 また、藤王がダメならショーゴー、めげずに高橋光、と挑戦的な選手変遷を打ち出してきたドラゴンズが、またもや“投手・金剛”というニューカマーを送り込み「責めの姿勢、健在」を示してくれたのも明るい材料。今回は佐藤、荻野と左右の即戦力中継ぎ投手も伴っており、新人・荻野は1年目から58登板と奮闘。わずか4登板と完全に後塵を拝した金剛も2軍ではセーブ王(防御率0.68)と地力あり。同じく1登板に終わった佐藤も、かつてプチブレイク時にくしくも“ミスター・ゼロ”と呼ばれた頃の再現果たし、3者揃い踏みがなれば投手番へと転ずる可能性もある。思い起こせば'88年松浦は16先発の一方救援でも20登板(8SP)し、川畑〜松浦('93年)〜吉田篤〜長冨と継がれたリリーフ投手像は定着していた時期もある。長きの沈黙を破り凪に投じられた一石が、「0」の新たな息吹となるか。
【2008年開幕時点】

{※1}ちょうど南海→ダイエーへの経営譲渡時で、新球団のユニホーム発表のモデル、いわば“顔”として選ばれたのが、「17」の加藤伸一と「0」の佐々木だった。しかしキャンプインを迎えると佐々木の背中は「3」に。わずか数ヶ月での“心変わり”だった。
{※2}転番先で佐々木が'92年首位打者&盗塁王、'94年盗塁王、石井が'98~'00年盗塁王、'98と'01年最多安打、初芝が'95年打点王、となっている事実もこの印象を後押しする。
{※3}川相が“二番ショート”に座って以降、種田、吉田剛、浜名、石井、神野・・・と二番タイプの内野手急増。在番時“二番サード”だった石井、“二番セカンド”だった種田はともに離番後ショートに転じ、“九番ショート”の浜名ものち二番に配されている。

{※4-ⅰ}元甲子園ヒーローのスター候補生・藤王、野中の入番は揺籃期 「0」の注目度UPに一役買った。たた藤王は「1」から、野中は「18」から(野手転向で)の転入だったため、“都落ち”イメージも持ち込まれた(=その第1例目は'84年「1」→「0」変更した立石だが、まだ2人目の「0」だったことで、この時は真新しさの方がまさった)。
{4-ⅱ}同じく甲子園を沸かせた吉田剛は、それまでプロ6年間で出場はほぼ守備固めか代走(〜「0」入番後レギュラー格)とすでに泥臭いプレーヤーへと変化[へんげ]。甲子園といえば準優勝投手の大越もいるが、高校卒業〜大学中退〜渡米、ホークス入団後野手転向、でこちらもエリート臭は霧消。社会人の都市対抗橋戸賞[最優秀選手]投手にして、プロ初年度7勝の吉田篤は、その後肩痛で2年計9登板、からの出直し着番。
{※5}このイメージを灯けたのも長嶋('94年以降)。から益田が継ぎ、一時期高[こう]、川中も準切り札。
【2008年開幕時点】