2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

00

【2008年開幕時点】

 

 すっかり俊足のバイプレーヤー番として定着した感のある「00」。別掲表を見ていると、まるで“背番号「00」を着ける者は俊足であること。ただし外国籍の者、代打を主とする者はその限りでない”とでも、野球協約で謳われているかのようだ。
 だが、登場しばらくは榊原、大順[だいじゅん]、アレン・・・などパワーヒッターばかり。“フレコミでは”という選手も含めると、揺籃イメージは「00」を読んでごとくの“飛んで飛んで{※1}”番号だった。
 しかしこの“一発屋”達が揃って不作。ならばと身軽との掛け解釈で“俊足一・二番タイプ”にお鉢が回り、'91年山口裕が1ベル{※2}を鳴らすと、オフには亀山参入。2ベル{※3}が鳴った。
 そして'92年のペナントレース開幕は、まさしく「00」にとっての本ベル{※4}でもあった。
 この年セでは亀山が、パでは山口が、それぞれレギュラーを獲得。「00」旋風を巻きおこす。特に亀山は、代名詞となる“ヘッドスライディング”で存在[イメージ]頭角を現すと、長年の低迷から久々に優勝争い[ドラマ]を演じた新生・タイガースの躍進の象徴としてオールスターに最多票選出されるほどの人気を集めた。実に現在にまで及ぶ、“俊足一・二番、どちらかといえば左打者”イメージはこの年の亀山が形作ったことはまず間違いない。当年はもう1人、城も一軍初定着を果たし、山口ともどもイメージボリュームUPに寄与。以降、大島、仁平、柳田[やなぎた]、諸積[もろづみ]、高村[こうむら]、小坂、森谷[もりたに]・・・と若手リードオフマン候補を量産。もちろんこの時点ではレギュラー、もしくはレギュラー期待番号だった。
 特筆すべきは「00」を着けた途端、一軍本格抜擢を得る選手が多かったこと。(山口裕は着2年目だったが)亀山、城に仁平も出場数激増。柳田も(6年間10安打→)レギュラー候補ノミネートの厚遇を受けた。着前年二軍定着の山口幸、佐藤、苫篠も再び一軍へと返り咲き。新人組では大島がシーズン後半レギュラー格、小坂は全試合ショートを守り通し(諸積も2年目レギュラー格)と躍進続き。たちまち「00」はアゲ番として脚光を浴びる。
 だが好事魔多し。やがて次々と厄難が襲いかかる。まず山口裕が上げ潮渦中の’92年6月、ダイビングキャッチの際に鎖骨骨折。残りのシーズンを棒に振る。もう一方の雄、亀山も翌'93年ダイビング時に肩脱臼、'95年には味方選手と激突して腰椎骨折。さらには無呼吸症候群に起因した(のであろう)遅刻癖によって、'93年から再低迷したタイガースの、今度は凋落の象徴として喧伝された{※5}。加えて仁平、高村{※6}、森谷もレギュラー候補の殻を破れず停滞。対照的に大島、小坂は脱番後レギュラーを長期堅持し、諸積、柳田も脱番後レギュラー〜準レギュラーとして定着。結果、「00」のままでは3年続けてレギュラーを張れないジンクスが生まれ、大リーグファンなら{※7}“ジョーンズ{※8}の呪い”とか“アレン{※9}の呪い”とか呼び出しそうな事態に突入したのである。
 また山口裕33歳、亀山28歳、仁平28歳、山口幸29歳、高村27歳、と若年での選手引退が目立つ「00」継続組(=仁平は最終2年「59」着用)に対し、返上組が佐藤40歳、大島38歳、諸積37歳、現役中の小坂&城石35歳、までプレーしているのも沈滞ムードを助長する。ダメ押しは嶋の'04年(9年計5安打からの)首位打者獲得だろう。これも離番初年のことだった。
 確かに「00」は良番で、身にまとえば規模の大小はあれブレイク恩恵にあずかれる。
 これは単に、(特に導入当初は)変わった番号なので見る者が目を留[と]めてしまう、というところが立脚点なのだろう。「00」を着けただけで知らず知らずアピールできてしまうのだ。そしてあえて“0”を2つ並べられると、百の位にも何らかの数字を描[か]き込みたくなる。見る者の想像力しだいでそれこそ「∞」(無限)にすら感じさせる可能性を秘めているのだ。だがその劇薬ゆえの副作用として見切られるのも早い。実に“足が速い”背番号なので、抜擢にすぐ応えないと期待外れの印象もすぐ芽生え、伸び悩みというイメージが他番より付きやすくなっている。当然、結果を出してから不調に陥っても“伸び悩み”とされ、しかもこの場合、いつまでも“恩に着せられている”ようにも映ってしまう。やはりどこまでいっても「00」は“特殊な番号(0は数字だが00は記号)”なのだ。ゆえにベテラン選手が「00」で登場すると“無理しておちょけている”感が醸し出され、見ていて“痛々しい”ともなる。
 ところがそんな習性を完全に逆手に取った選手がいる。その男の名は後藤孝志。「50」番当時からチャンスをつかみかけてはケガでフイ、のパターンが続いた選手だが、それは「00」を着けてからも全く変わらなかった。ただ、そのたび復活する点がそれまでの「00」戦士達とは違っていた{※10}。好調時にケガ、気合いで早期復帰、これをルーチンワークのようにくり返し、控えながら「00」継続組最長寿の36歳まで選手生活を続けた{※11}。何せ顔面骨折から半月で立ち戻る{※12}この男の生命力には、さすがの「00」負のジンクスも“負[まけ]である”と自覚せざるを得なかったのだろう。ある意味初めて「00」と一体になれた選手といえるかもしれない。
 そして、この“負と負の相乗”が正[プラス]へと導いたのか、'99年佐藤が34歳にして突然ブレイク。スーパーサブからレギュラー入りを果たし、25試合連続安打も記録、最終的に三番を任された。さらにミラバル(計39勝、37Sとも「00」投手最多{※13}、メイ(計301安打、59本塁打とも「00」選手最多{※14}が中軸全うして負の影を粉砕。特にミラバルは1度リリーフで失敗(='01年6敗)、という自身の“負の傷”も、'02年より先発で9、16、11勝を挙げ縫い綴じた。
 これで再脚光を浴びると、'04年新人・尾形が後半レギュラーを獲得して新鮮度も再生。後着・山﨑も(6年間0安打→)後半スタメン定着、その後陥落も“隠し玉”的バイプレーヤーに定着。さらに長年レギュラー候補期待を裏切り続けた森谷('04年まで計16安打)も、新興球団移籍が追い風となって'05'06年とレギュラー候補再ノミネート(〜結局定着ならずも)。また'05年、故障退団〜リハビリ生活、を経ての代田[だいた]が2年ぶり球界復帰着(当年31歳)。代走役で一軍再戦力となり、年20前後の打席なら.091→.182→.364と打率も倍々進境。
 から、'08年、今度は川島が(2年間10安打→)レギュラー候補被抜擢〜オープン戦でも結果を残し、久々の(通年ではメイ以来、日本人では'97年小坂以来の)「00」レギュラー誕生予感を発揚中。
 そして'05年ミラバル〜'06年D.J.カラスコが各3先発、計6連敗中の投手陣も、軒作[けんさく](=結局0登板)〜D.J.ホールトンで命脈確保。くしくも後藤のラストシーズンから続く“負の連鎖”だが、新着・ホールトンは正と同じく負の対語である“勝”へと逆転させられるか。
【2008年開幕時点】
 
{※1} 例えば5006を「5千“飛んで飛んで”6」と読むことから。
{※2} 劇場で開演10分前に鳴らされるベル。
{※3}同じく5分前に鳴らされるベル。
{※4}開演時に鳴らされるベル。
{※5}だが退団で「00」を脱すると'99年、少年野球チームを率いて世界大会優勝を果たした。
{※6}プレー中のケガ、で苦しんだ点は高村も同じ(ただしその傷を負ったのは着前年)〜’96年オフ手術後一軍復帰ならず。のち米崎も故障禍続き〜着'98年古傷再発で被解雇。
{※7}1918年5度目のワールドシリーズ制覇(全米チャンピオン……'03年第1回開催)を成したボストン・レッドソックスが、'20年にベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースに金銭移籍させて以降その栄光と無縁になり、逆にヤンキースがチャンピオン常連となったことから「バンビーノ(=ルースの愛称)の呪い」なる解釈が生まれ、これは2004年祓われたものの、「ヤギの呪い(シカゴ・カブス)」や「ウィリアム・ペンの呪い(フィリーズ含むフィラデルフィア“4大スポーツ”プロ球団)」など制覇から遠のくと新たな産声が上がる。
{※8}“バースの代わり”……このヤケクソ感満開なアドバルーンの打ち上げられ方から、すでにある種の結末を予感させたが、案の定鳴り物は全くのシャミ。「00」は1年“なかったこと”にされた。
{※9}シーズン不調も、日本シリーズ四番で2本塁打5打点……も残留ならず。前年、榊原も6月加入即本塁打〜3日後死球骨折。オフ、コーチ兼任となり事実上の選手引退。
{※10}シーズン単位で見れば山口裕はケガの翌'93年出場約3倍増。だが(オープン戦では6本塁打の活躍も)シーズンでは打率.250以下、本塁打も4、盗塁(前年37試合で15→当年110試合で)17。翌年から控えとなり、'96年からは二軍定住。
{※11}現在秀太31歳、着4年目の代田34歳、以外全員20代。ちなみにミラバル退番時31歳。
{※12}これもある種の縁なのか離番後に諸積が全く同じ経験をしている。また佐藤は高校時に打球直撃で頭蓋骨骨折(=当時投手)の過去がある。
{※13•14}シーズン記録は16勝('03年)、19S('00年、ともにミラバル)に、140安打('92年亀山)、31本塁打&91打点('01年メイ)、56盗塁&66得点('97年小坂)、打率.290('95年諸積)。
【2008年開幕時点】
 
 
4行目榊→木へんに神
苫→竹かんむりa