2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

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【2008年開幕時点】

 

 捕手のエース番。“準”を含んだレギュラーに、吉原[よしわら]、楠[くすのき]('51年)、根来[ねごろ]、森昌、谷本、加藤俊、大矢、大宮、伊東、中嶋、古田、吉永、古久保('95年)、山田 ('96年) 木村一('02年)、谷繁、日高、細川、と続く豪華系脈。'70年代まではそうイメージが突出していたわけではなかったが、'82年伊東入番で捕手が5人へ増員されてからは、終始イメージリード。'87'88の2年を除き常に5人以上が登録されている('87年内田⇄岩本トレードは開幕前のもの)。
 その“エース捕手”の初代・吉原は、'38年入団即レギュラーとなり、闘志満々のスピード捕手としてたちまち人気を得た。ファウルフライを追って一塁ベンチへ飛び込み捕球、顔面血だらけで「 捕った捕った!」と叫びプレー続行。あとで同僚が確認するとべンチのコンクリート屋根に血のついた髪と頭皮がはりついていた、という武勇伝を残すガッツマン。'40年には30盗塁(トップに2差の3位)。'41年には打率6位の.250を記録している。
 この吉原より一足先にデビュー、活躍し、やはり人気者となっていたのが「タコ足」一塁手の中河。送球を捕る際、両足をペタリ地面に着けることから「タコ足」。巧みなファーストミットさばきも併備し、ファンは二、三、遊ゴロの際、わざと(一塁へ)難送球するよう手拍子で要求、易しい送球にはヤジが飛んだという逸話が残されている。打っては四番で'39年.282、'41年.236はともに8位。また一塁手の他、投手でも'37年秋13勝、'41年7勝はともにチームトップ(打率で'39~'41年、打点で'39と'41年、盗塁で'39年もチームトップ)、'37年秋、'38年秋はともに防御率3位にランクされた。
 この2人に続き'40'41年は新富も輪に加わる。'35年巨人米遠征時には四番を打った強打者で、阪急でも四番に入る。'41年の秋季は.325で打率1位(通年では.235で12位)。
 と、ほぼ下積み知らずのスターナンバーとしてスタート。しかし上記3選手とも'41年シーズンを限りに揃って退団、応召し、3者とも戦死した。
 再開の'46年、まず飛び出したのは河西。当年より3年連続盗塁王。'48年は1位・河西66個に、2位も塚本が39で次ぎ“走”印象萌芽。翌'49年玉腰も加わり、先達2人とともに25前後マーク。また'46年河西ゲーム6安打(当時新)に'49年塚本ゲーム6得点(現在もタイ)、さらに'46年河西、'49年玉腰はともに犠打王とチャンスメーカーの資質を披露。'50年からはポイントゲッターながら三宅宅{※1}が25以上3度、戸倉が20以上3度、そして再びチャンスメーカー・木村勉が'54年38、'55'56年各20前後マークと引き継いだ。
 また2リーグ分立を境に、永利[ながとし]、加藤春、三宅、戸倉の老練衆{※2}、にプラス新鋭・関口の強打レギュラー続々台頭。半レギ格の木暮(=は中堅)を含む一大勢力となり、'52年シーズン途中移籍の深見が25本塁打(=「27」では23本)でパのキング(同年2位も関口の21本)、'55年町田が31本塁打で今度はセのキング、とイメージ結実を見た。これと並行して投手勢も服部武'51年10~'52年16勝、中村大'55年23勝(ベストナイン)と本格始動を図る。も、主役はやはり強打像。それも走力併備の強打者メイン。'54年には三宅26、戸倉13に、関口19、町田も17盗塁(町田は脱番後に28マークのシーズンあり)。 先述の木村 38を加えれば、全体的な“走る「27」”番像はむしろ広がったともいえる。
 しかしその後捕手像の再興により、走印象は廃れていく。楠{※3}('51年)のあと、'58年~根来、'59年~森がレギュラー着座。森は'61年~8年連続ベストナイン、根来もオールスター4度出場の安定株。さらに谷本、加藤俊、大矢と続いていくが、脱番後に3年連続2桁盗塁マークの加藤以外は鈍重。捕手としてのスタイルも“立像”吉原から“座像”の森へと雛形が描き換えられた感じだ。'70年代、森譲りの巧キャッチング&好リード(座像)に、強肩から放たれるスローイングをイメージ併有した大失によって雛形再改鋳[かいちゅう]。
 残党の強打像はイメージロングランナー・関口が'61年にレギュラーを外れると、ウィルソン、ウインディ、チャック、ボレスの助っ人勢で巻き返し。ウインディは一番打者として'67年得点王。同年三好21盗塁と久々に走印象も復権。すると'70年山本浩が20本塁打&20盗塁クリア。その山本が抜けると、'71年門田が(こちらは盗塁数少だが)3割&30本&100打点クリア、としぶとくスケールアップ。'70年代は3割5度、本塁打20~25の中距離・門田(=長距離転身は脱番後。これは前述・山本も同じ)に、打率.250前後&本塁打20前後の粗玉大砲・竹之内が生き継いた。また竹之内は看前の'69~'76の8年間で7度の死球王。('68'69年分を加えた)パでの通算142はリーグ最多記録。
 逆に、セで通算120('67年の3含む)のリーグ最多与死球を記録したのが平松。同選手登場までの投像躍動は、'64年佐々木{※4}が'58年中本以来のローテ入り。'65年水谷15、小野9勝。'66年水谷、若生[わこう]各10勝(~両者とも準主力定着)。ときて平松。右打者のフトコロをえぐる「カミソリシュート」会得の'69年~12年連続2桁勝利。'70年25、'71年17で連続最多勝&ベストナイン。打っても通算25本塁打と強打像の末席も陣取った。同'69年~八木沢中継ぎ台頭。'70年台頭・神部は以降2桁勝利4度、防御率2位2度。 '69~'71年若生、'71年皆川も2桁勝利。'73年金城は10勝~翌年20で最多勝、もオフ交通事故で両目角膜切断。再起が危ぶまれたが、'75年8月復帰~抑えとなり10月の球団初優勝決定試合で胴上げ投手に。当年は皆川も抑えで18SP[セーブポイント](=リーグトップ。ただしタイトル制定前)と活躍。から、'76'77年と先発に回った八木沢が、'80年にはベテラン松本が自身4年ぶりの、それぞれ2桁勝利をマーク。
 と、実は'70年代、セは平松、パは門田&竹之内中心で、大矢1人の捕手像は添え物の印象。だが'81~'84年大宮、'84年~伊東で一瞬の凪を突き再盛すると、岩木、笠間~嶋田をべンチへ引き込み勢力拡大。代打の正垣[しょうがき]、岡本、原、福王、守備固めの二宮、大原、岩本と一芸タイプが続く野手陣を尻目に'89年~中嶋、'90年~古田、'92年~吉永、で磐石体制。 特に日本シリーズ常連{※5}捕手の伊東{※6}、古田の存在は大きく、伊東は'84年20を始め2桁盗塁5度、古田も同2度。スマートな“動ける捕手”が両雄に並んだことで雛形も立像回帰。また古田は3割8度、20本超4度の基本好打者ながら、'92年30本は'71年門田以来の30到達、'03年には4打数連発と強打像も再建。そして'96年までの捕手時常に.290台、15本前後をマークの吉永が、'97年DH転向して.300 29本。中嶋、木村一、谷繁、日高も平均値低いが“打てる捕手”で群像収斂。大矢発の強肩像も、中嶋、古田、清水、野口、谷繁、細川・・・と続き定着。加えて古田'95~'96年にかけ1046、伊東'96~'98年にかけ1263守備機会連続無失策で各リーグの捕手新記録を樹立し、谷繁が'06~'07年にかけ1708でセ記録を更新する堅陣像も搭載。
 すっかりその波に呑まれた野手像だが、惜しかったのが一番打者系譜の復権で、ウインディタイプの大型一番・中根、河西~木村タイプの韋駄天・川名がともに兆し止まり。両方の資質を備えた坂口は所属球団消滅により脱番。で、野手自体も(一旦)絶えてしまった。
 となると注目は“投手「27」”。'80年代に入りやや頭打ち、から土屋~牛島~河本とつないでリリーフ流れが発足('87'88年牛島、'97年河本は抑え[ストッパー])。井上、小倉、'02年前半飯島、'04年中村隼、'07年江尻がこれに続き、牛島、小倉が着3年目の各々'89、'01年先発転向、2桁勝利。準先発・田辺が実働8年計20勝で間を埋め、'00'01年小宮山[こみやま]に'01'02年小倉と先発入り、'01年は両者2桁勝利。以降、江尻、飯島、土居、栂[とが]野、古谷と新人着が増え、即戦力先発・門倉~アッチソンも補充。谷繁の高齢(=38才)を考えれば“君主転覆”もあるかもしれない。
【2008年開幕時点】

{※1}'49年高校野球部監督として甲子園出場~翌年毎日ヘテスト入団した変わり種。逆に選手引退後にアマ指導者の道を進んだのが、高校球界で冨樫、東谷、後[せど]原、大沢。大学で伴、大沢、竹之内。社会人で大沢、冨樫、戸川、佐々木。また二宮は教員免許取得後、スポーツ指導者派遣会社設立。三宅の選手引退後のポスト・スカウトへも、丸尾、河西、伊藤四、保坂、白坂、田中久、谷本、石渡、中根と多数輩出。
{※2}プロ入り時、('48年の)永利28、('50年の)三宅29、加藤33、戸倉36才。
{※3}'41年オフ出征前の吉原に指導を受け'42年後釜に、の過去がある。コーチ時には加藤俊を育成。他に森→伊東→細川も師弟筋。谷繁も来番前、監督・大矢時に1人立ち。
{※4}ちなみに平松と同じ日本石油出~'06年着の栂野も同球団出。
{※5}伊東13度、古田5度出場で直接対座3度。その先達・森(13度)は3度目の出場~のち指導者での9を加え20連続シリーズ制覇。伊東も3度目~6連続制覇。
{※6}'96年1000安打へ開幕戦サヨナラ満塁弾で到達・・・相手先発投手は9回無死まで無安打無得点。'52年神崎、'65年ウインディ(脱後の'62年西山も)は9回2死から同記録粉砕。
【2008年開幕時点】