2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

26

【2008年開幕時点】

 

 紆余曲折——。この一語に貫かれた背番号、の趣。その筆頭領主・江夏は「28」でエースに君臨→「17」で“ストッパー”という働き場を確立、球団を転々としながら「26」では'79年より3年連続優勝貢献。ストッパーの存在価値を“ペナント奪取の絶対条件”にまで高めた優勝請負人。その証として'79年・'81年と史上初の両リーグまたぎでのMVP受賞を果たした。
 イメージの両輪を組んだ西本は台頭時('77年) 21歳ながらあえて茨の道を行く“反骨むき出し”スタイルで江夏像の対句となった。脱'89年には('86年以降7〜8〜4勝の下り坂、を経て)移籍で20勝、初タイトル獲得とさらに真価を発揮し「26」時分を再斟酌させた。
 逆に翌'90年巨人より見切られ「26」着、の鹿取は開幕から10登板連続セーブの新記録(当時)を作るなど27セーブポイント(セーブ+救援勝利)を挙げ初タイトル獲得、とイメージ増幅。
 この系譜を継いだのは落合だろう。大学4年時に右肘骨折で投球不可となりながら同年ドラフト1位指名を受けた出自、入団後も「19」→「12」→「70」→「71」→「25」→「26」と移籍経験ゼロにかかわらず5度も背番号が変更。その波乱を物語るように「一球勝利」「一球敗戦」「一球セーブ」を全て記録している。
 この間'01年にはシーズン途中(巨人より)移籍した三澤が7月30日「26」初登板初勝利、を皮切りにリリーフ21登板して7勝の優勝サムシング貢献。同'01年、急性骨髄性白血病を患うも翌年開幕戦復帰登板した岩下、に'97年34歳にして初のローテーションフル定着、10勝を挙げた伊藤も流れを汲んだ存在といえる。「26」寄与率低めも、脱番後米国1A→日本復帰→台湾と渡った田嶋、日本(→草野球3年) →台湾→日本〜復帰2年目来番の野中、にイップス(主に投球時の力加減の瞬間失念)病で選手断念→のち(記者を経て)スカウトで才気煥発の片岡{※1}、もいる。
 さらには高3時、春全国優勝するも夏エース病欠、急遽代役エースとなって春夏連覇を完成させた加藤斌と言う逸材もいた。しかし加藤はプロ3年目の'65年1月、自動車衝突事故でこの世を去る。去り際で言えば菅原は投ライナーの顔面直撃による視力低下で投手生命を断たれ、森安は黒い霧事件で永久追放、これは脱番後だが小暮は'50年サヨナラエラーしたのを苦にオフ、プロ廃業している。
 そして去り際における断腸、の初代に刷り込まれているのが石丸。'45年特攻機へ機上の前に「最後のキャッチボール」で私心をボールに籠め、置いて飛び立ったエピソードは映画にもなった。
 選手としては'42年初登板完封、含め17勝、'43年無安打無得点、含む20勝。の投手として著名だが、入団1年目は遊撃兼二塁手。当'41年復員した兄・藤吉と時に二遊間も組んでいる。「26」=内野手、は当時自然な流れで、'37年春の奈良、同年秋〜'39年漆原、'38年春綿貫、'40'41年宮崎、'41年伊東。プラス石丸がレギュラー。奈良、綿貫はクリーンアップを打ったが、その他はリードオフマンタイプ。ただ打率は軒並み2割前後(最高で'37年春奈良.252)、投手も'40年平野正3勝、'42年小田野1勝だから、エース・石丸の奮迅がイメージ的に突出している。また'43年は背番号廃止ながら岡田、小暮がレギュラー格、丸山も7勝(21敗)を残した。
 から戦後、まず飛び出したのは田川。俊足好打の三番打者として'46年.341 (2位)、26盗塁→'47年も31、が打率は.247と急落し、'48年大陽へ。さらに近鉄へと流れ、阪神→阪急→大洋と渡った宮崎とともに'50年「26」復帰。早くも紆余曲折が顔を覗かせる。同年宮崎61、田川24盗塁で走り屋イメージ勃興。藤井道も'52年54、含め20以上5度、坂本も2度、戸口も1度で完全定着。打つ方は宮崎.250、田川、藤井、坂本{※2}は.270前後も、'54年坂本が10打席連続安打の(当時)新記録。これが分岐となったかのように'58年長谷川繁、'59年近藤{※3}が打率リーグ10傑入り。近藤は'60年より3年連続& '67年と2位。'61年35で盗塁王と走り屋像も継いだ。
 また'62年オールスター後.464を打ち、後半スタート時点で5分差つけられていた1位選手を1ヶ月で抜き最終的に.374、翌年も.335で連続首位打者となったブルーム。の共鳴もあり、左の広角打者イメージが強烈に刻印される。また'50年日比野、新留、から小林章、田部、に村上、戸口、長谷川、木下、河合・・・のクラッチ流れも、徐々に左率がUP。
 さて一方の投は'52年緒方、徳永9勝がようやく狼煙。'53年から、徳永2年、渡辺省6年&'60'61年と2桁勝利。'55年より18、22、17勝の渡辺は、それでも勝ち頭になれないほど充実したタイガース投手陣の“チェンジ・オブ・ペース”的役割を果たした。'60年からは久保田が4年主力で'61年25勝もやはり勝ち頭にはなれず。'61年中村稔17勝でジンクス破るも、'65年20勝時は同僚・宮田征典の陰に隠れ、とたたずまいは相変わらず。それを払拭したのは森安。僚友・尾崎行雄と双璧といわれた快速球を持つサイドハンド。変則投法に付き物の荒れ球持ちでもあり'68年22与死球は日本記録。また最多で16勝(当年の敗北数23)、勝ち越したシーズンは1度もなく突き抜ける前に球界を去ったことで、イメージが変異しきれなかったのは惜しい。
 そして森安退出と合わせるように'70年からは近藤も控え組。投で'72年菅原が主にリ
リーフで13勝、打は'73年当銀がスーパーサブで107出場、が目立つほど減退した。
 何とか投は'75年井原が先発入りし7勝(→'78年リリーフ10勝、'81年先発で9勝)、'76年藤田11勝→'77'78年ともに16で勝ち頭('81年も13勝)と巻き返す。'80年より西本が5年連続14勝以上。ただ勝ち頭は1度きりの“陰の主役”タイプ。'79年より6年ローテ堅守(2桁勝利2度)の工藤ももの静かな“縁の下”の風情。また'76年より3年連続40登板超のワンポイント・佐藤政〜ストッパー・江夏〜再び一封職人・山本和の左リレーも“縁の下”を助長。左先発は'86年より2桁勝利5度の小野が、ちょうど西本と入れ替わる形で台頭し、同じく“第2エース”格として定着した。
 そんな万年脇役気質から、一時脱する雰囲気が立ち上ったことがある。'77年35本塁打&打率3割で一気に中核打者に成った田代によって。それまで最多が'58年長谷川の16本という流れにあって、以降'79年19本を除き'85年まで軒並み20超、30以上も3度。ながら'81年以降は打率セ30位前後の粗さがたたり、オールスター出場は'77年1度きり。森山、藤井信、相羽、ジェナスの同系右パワー打者もあとへ続けずイメージローカル化した。
 逆に左はハンセン、小林晋がフォロワー逗留、ののち'83年金森が日本シリーズの大舞台で延長10回代打サヨナラ安打、'84年小林も同舞台で決勝本塁打{※4}。こうなると歴史的慣性があるだけ左有利。秦[はた]、シーツ、佐伯、松中、に控えで山崎も続く。ところが秦が移籍脱番すると、松中、佐伯に新参・根本隆も改番し流れ寸断。逆に岸川〜ダンカン、から廣瀬、的場、小田嶋、下山、小田と右控えの躍動ナンバーに変心した(左のグラボースキーも控え) →再び左盛り返し、'08年2:2でイーブンのシーソーゲーム中。
 対して投は小野以降先発流れが滞り、'88年小川、'95年竹内、'97年伊藤が各10勝に、'97年竹内8勝、'01年カーライル7勝、ぐらいに減退。伊藤、竹内はリリーバー印象がより強く、鹿取も'95年以降こちら主戦場。リリーバーは他に右で落合、黒木、三澤、河端、左で西村、西川、岩下、杉山、星野、江草、有銘[ありめ]と参集。また鈴木哲、和田、西山、星野と生き残りをかけてのサイド転向例も相次ぎ、元からサイドの小川、松谷、鹿取、黒木、岩下と併せサイドイメージ形成。ただ正直頭打ち感も拭えず、行き詰まりを象徴するように糸井が'06年4月に野手転向。本格野手経験ゼロの完全見習いリスタートとますます混迷深まる中、内海哲が'06年先発2桁勝利を挙げゴッタ煮よりイチ抜けた。巨人の初代「26」五十雄[いそお]の実孫、だけでなく'06年チェンジアップ習得で同球遣いの元祖・中村稔の史籍もボーリング継承。'07年は開幕投手で14勝&防御率2位と一気に本流となって溢れ出た。また江草も役割未決→'07年リリーフ50登板の防御率1点台と活き場所が定まった印象。一封・星野の継続フォローも手堅く、'05〜'08年計6勝24敗の有銘が安定し、中堅・康介、新人・岡本秀の台頭なれば日本球界の新“左腕ナンバー”として屹立する可能性も。
【2008年開幕時点】
 
{※1}他にも白坂、藤井道、渡辺省、渡辺秀、当銀、小林晋、山崎賢と名物スカウト多数輩出。
{※2}ゴロを体で捕る“猪突猛進”三塁守備もウリ・・・後年金森も「デッドボール男」でファイター襲名。
{※3}目線の高さで地面と平行にバットを揺らして間合いを計る「天秤打法」が代名詞・・・のち西本は前足を地面と垂直に上げてから、打者の懐へ攻め込む“直情径行”投法確立。
{※4} '92年秦も延長サヨナラ弾(当年鹿取は逆に代打満塁延長サヨナラ被弾)。シリーズ男と言えば村上は'51〜'53年代打7出場4安打4打点1本塁打、'53年延長サヨナラ安打。投手も西本が'81'83年各2完投勝利('81年MVP)、江夏も'79'80年胴上げ投手&'79年1点リードの9回裏死満塁で三振〜カーブをわざとスッポ抜かせて空振り、三塁走者アウト〜三振、で優勝決定の語り種提供。'61年中村稔も救援4完了で胴上げ投手。に0勝だが'62'64年渡辺省5登板で49回(イニング)、'62年久保田4登板27回。'78年井原、'92'93年鹿取、'95'96年伊藤、'01年河端&三澤、'04年落合はゲーム“引き締め”中継ぎ役。
【2008年開幕時点】