2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

25

【2008年開幕時点】

 

 別当、スペンサー、松原、大田、高井、クラーク、新井貴、村田修・・・と続くた右主砲ナンバー。中でも別当、スペンサーの存在は日本プロ野球史においても非常に重要な局面に位置している。特に別当はプロ入りがすでに“事件”だった。
 当初マイナーだったプロ野球(職業野球)がメジャー認知されていく過程、のみをものすごくかいつまんで記せば、沢村栄治、大下弘の「出現」、から別当、藤田元司、長島茂雄のプロ入り、となる。野球で金を稼ぐのは“恥ずべきこと”とされ、甲子園出場~東京6大学~ノンプロ入り、が王道だった時代、その“王道”でトップ選手を張り続けていたのが別当。実力に加え、スマートでハンサムな花形スターのプロ行きは、それまでのプロ野球への世間評、“無頼派集団”のイメージを大きく変えた。そして、'48年は左足骨折する6月まで打率トップ~'49年、本塁打2位の39、打点3位の126、打率6位の.322と好結果を残してアマチュア選手を大いに“刺激”した。これは、直後の2リーグ分立による球団数増加、にともなう当然の選手不足。その補填を、これまた当然前年までのアマ選手に頼る以外なかったことを考えれば大きな意味を持つ。また別当自身もタイガースのお家騒動にからんで、ある意味パリーグを生んだといえる「毎日{※1}」へ移籍。'50年、43本塁打、105点で二冠。打率もトップと4厘差の2位( .335)、盗塁も34、と日本初の“トリプルスリー(3割30本 30盗塁 以上)”を(同年セの岩本義行と同時)達成。MVPに選ばれ、同年第1回日本シリーズでも24打数12安打でMVPを獲得。
 さて、少し話戻ってタイガースのお家騒動というワードにフォーカスすると、その第1号が初代「25」の森茂の監督更迭劇。'36年春季、ライバル・阪急に1勝2敗で負け越したから、というのが理由だが夏季3大会目のトーナメント決勝で阪急を破って優勝の直後の解任だったため、一悶着がおきた。
 波乱明けの'37年、中村民が通年レギュラー、笠松通年で10勝。'38年春は桝が打率2位、小田野防御率2位。桝は'42年まで主に三or二番を打ち、'40年井野川は四番~9月からは監督兼任と活気付く。が、この間の主役は何といっても亀田。先の'38年春、これまた2位の12勝、秋7勝、以降も14、26、6勝マーク。打っても'39年5本塁打(1位で10本の年)。最大の特徴なのが“(奪)三振か(与)四球か”。で、'40年までオール与四球王、'39年283は日本記録、'40年も282を教えた一方、当'40年297奪三振は1リーグ時のシーズン最多(ただし通年では'37年沢村栄治 が春秋計325を記録)。'41年には2度目の無安打無得点を達成。だが日米関係悪化のため、日系人の亀田は6月に強制帰米。その後、'42年は前記の桝に杉江、八木が準レギュラー。'43年は、復帰の中村再レギュラー、八木引き続き準レギ格で捕手勢躍進も、当年開幕前背番号廃止でイメージ変調ならず。
 戦後明け、二遊間レギュラー・松井信が1打席19球(最多記録)目に四球を選ぶ粘りを見せると、'48年東西対抗では左翼手・平山が本塁打性の大飛球をフェンスに手をかけジャンプ捕球、「塀際の魔術師」の異名をもらう。'48年は別当の入番に加え、加藤正、笠石もレギュラー。控えの小前、辻も前年レギュラーのため知名度は高、とにぎわい始める。続けて浜田、関口清 、永利、初岡('51'52年)、菅原、黒田とレギュラーが出、控えの野村浩、新留[にいどめ]、日下[くさか]も含め巧打の主で足もそこそこというタイプ。その流れから飛び出したのが'53年後半来日の銭村[ぜにむら]。一番に座って19盗塁、翌年も27を走り、平山、別当の俊足イメージ面継承。'54年、高倉台頭。'55'56年連続30盗塁超、に留まらず3割3度、年10本塁打前後、'63年には27本マークの“大型一番{※2}”として定着。この間捕手も'52年目時、'53~'55年松井淳で流れを作り、'53年加藤進、'56年土井は半レギ格。から'57~'62年常に100試合前後にマスクをかぶった山本哲が系譜をつなぐ。ただレギュラーフォロワー現れず以後下火に。すっかり廃れた投手勢は'54年笠原9勝が目立つのみ。'57年中継ぎ役・青山裕48登板に'50年吉江、'56年片田の各3勝がそれに次ぐ戦績。逆に高倉は、フォロワーに走&守面では土屋(ただし高倉が“猪突猛進”なのに対し土屋は「眠狂四郎{※3}」と呼ばれた茫洋タイプとキャラは正反対)、打面でスタンレー橋本を得て領地拡大。内野の一団からは松岡雅、阿南に、島田とユーティリティー像も産出。ただ、中心打者期待の悟&光平の両杉山ベテラン外野手が揃って不調。194cm 93kgの巨漢・マックは三原脩監督のアドバルーンもあって“黒船来襲”を予感させたが、フタを開ければ、12~8本塁打と評判倒れ('62年の打率は.261ながらリーグ12位)。しかし'64年、今度は本物の“黒船”が来襲する。それが本稿冒頭で名を挙げたスペンサー。
 いわゆる外国人=大砲助っ人、のイメージを定着させたのがこのスペンサーで、それまでの来日選手は与那嶺要を筆頭にレインズ、バルボン、 平山智、前出の銭村とスピード選手が主。“三振か本塁打か”の元祖・ソロムコも'63年の22本が最多で、その'63年、ハドリ 30本、が助っ人の30到達第1号。そして翌'64年スペンサー 36 (&クレスも36、マーシャル31) 本。'65年は野村克也と打撃3王座を争い38本{※4}、.311(ともに2位)、77打点(4位)で長打率、出塁率ともトップ(ちなみにクレス、マーシャルは各19、ハドリは29本)。同時に、投手のクセから球種を探ったり、打球傾向から守備位置を変えたりしてデータ野球の“もととなるもの”を注入した点でも(スパイ野球の促進材ともなったが)日本野球に影響を与えた。
 もちろん「25」への影響も大で、滞日中に強打者が続々入番。その中から松原が“主砲”を引き継いだ他、井石、北川、井上弘が3年間レギュラー。そこから陥落後の井石、北川に、相羽、宮原、下須崎といったあたりも代打で存在感を示し、この波を継いだ高井{※5}が'74年、新記録となる通算14代打本塁打(入番前の9本含む) 目を放ち、オールスターでは代打逆転サヨナラ2ラン。シーズン6本も当時新(現パ)記録。通算数は最終的に27まで伸ばした。この高井の存在が'75年パでのDH制導入につながり、自身も'77年初規定打席到達してDHべストナイン~'78'79年“3割+20本”超。に、1歩先んじ大田が'76年DHベストナイン。左は片平、得津と台頭。後期・高倉、宮原、相羽、井上~高井、大田、得津とずんぐり像も振興。一方長身・松原が投手以外の8ポジション経験、巨漢・スペンサーも二塁→三塁→一塁のコンバート歴を持ち、井上も外野→三塁と転々、松原は一塁で180度開脚し地面に着ける“タコ足”披露と柔軟像も興隆。'71年には外野、一塁、捕手、遊撃をかけ持ってきた高橋博が三塁を主戦場に初の規定打席到達。以降も船田、木下、吹石、間々に富田、上垣内[かみごうち]、豊田、鴻野[こうの]、から小川、笘篠、山田和、勝呂[すぐろ]、若井に、安達、佐竹と、ユーティリティー選手が連なっていく。
 そして投手も'70年山田久がオールマイティー起用され10勝。'72年入番の山本和は'86年、江夏豊に次ぐ2人目の通算“100勝&100S”達成。から'89年西本聖が先発20勝。猪俣~門倉も先発、中条~平沼は中継ぎで定着。を経て先発コンスタント型・パウエル('05年はJP)へ。これで根を下ろしたかに思われたが、立石、館山の揺り戻しでオールマイティー像再興。中継ぎ・正津[しょうつ]を加えたサイド像も芽を出し、'07年には新中継ぎ・渡辺が“使い勝手、良”イメージを注いだ。
 打方は高井、大田、得津に、'79年~平田、ユーティリティー一団からも若井、小川、さらに安部、畠[はた]山、副[そえ]島と切り札代打の百花繚乱。逆から見ればレギュラー層が薄く、'80年代20本塁打以上は'80年片平、'81と'83年大田、'84年藤田、だけ。ようやく'97〜'99年とクラーク連続到達('98年は“3割30本 100打点”超)。さらに米大リーグより'98年M・マグワイア70本~'01年B・ボンズ73本で各々新記録樹立の報せが流入。すると堰を切ったように'02と'05年~新井貴、'03と'05年~村田修、'07年李[イ]が続々クリアし、'05年新井、'07年村田は本塁打王も獲得。また'97'98年クラーク、から'03年前半新井&濱中お、に'05年~新井、'06年中盤~村田、'07年李と四番着任。後続候補者にも竹原、新井良、横川、迎[むかえ]が控える充実の布陣となった。
 から'08年、新井貴、&その後釜・シーボル、が“三番”候補で新天地へ。かつて別当、スペンサー(+マグワイア、ボンズ)が実証した“三番最強打者”説の日本での再啓蒙となるか。
【2008年開幕時点】

{※1}将来的な2リーグ制実施、の意味を含んだ第1布石、「毎日」球団の増設は是か非か、において当初賛成だった大阪(タイガース)が土壇場で反対へ寝返り、既成8球団が4:4に分裂、結果分立となる。この経緯に不信を抱いた大阪の主力5選手が毎日へ大量移籍した。
{※2}初代「斬り込み隊長」・・・初回先頭打者本塁打の多さ(通算15=当時としては)に由来。
{※3}柴田錬三郎の剣客小説名。また杉山光の「円月打法」も眠狂四郎「円月殺法」からの転用形。作者は違うが、のち大田も時代劇(TV)の表題『必殺仕事人』が異名となった。
{※4}8月初旬時32本(野村26本)も、以後四球責めでペース減。野村属するホークス戦ではバットを逆さに構え抗議した。10月、2本差負け時点でバイク事故に遭い離脱。
{※5}前着者同様クセ盗み名人。それを記した書もスペンサーメモ~高井メモと呼称継承。
【2008年開幕時点】