2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

【2008年開幕時点】

 

 高橋慶、松本を筆頭領主に大野、飯田哲、波留[はる]、荒木、東出、渡辺直、と続く快速リードオフマンのイメージが他を圧倒。'02'03年サブロー、'04年柴田もその座に半~準定着し、それとはややイメージの異なる大型一番の武上~田尾の継承候補{※1}として内川も急台頭中。
 近年これに城島を大将とし、的山、三輪、'08年~高橋信に、控えの野口、矢野、瀬戸で騎馬隊を組む捕手像が復活~猛追してきた。的山以外は皆、打撃もいい。
 全体的な特徴は将来の球団幹部候補生が多いこと。ただ、一言居士タイプが多いためか(今から挙げる選手が全員そうというわけではないが)小森、小玉、一枝、山崎裕、田尾、高橋慶、高代、飯田哲、波留・・・と軒なみトレードされている。生え抜きのプレーイングマネジャー(選手兼監督)、というこれ以上ない王道を歩んだ小玉もわずか1年でその座を解かれ退団。次期監督有力候補だった広岡も最後はケンカ別れの形で退団(選手引退)。唯一寵愛[ちょうあい]を受け続けた武上も、監督5年目('84年)成績不振で途中休養→退団となり結局成功しなかったことがさらに印象を後押ししている。近年も、球団への執着は人一倍だった元木をして毎年のようにトレード要員に挙げられ、FAによる自主選択での転籍ながら"生え抜き"感の強かった城島、小笠原が新天地へ。城島にはまだ米球界挑戦という"隠れ蓑"があったが、小笠原は国内移籍、それもチーム久々の優勝直後に退団したことで、「2」の流浪体質はより強靭な姿をまとって改めてさらされることとなった。
 逆に見れば、移籍してきた選手には着心地のいい番号ともとれ、小笠原、西江、東田、竹之内、柏原、片平、に移籍3年目着ながら白[はく]が最後の一花を咲かせ、(ライオンズでの)山崎裕、(両チーム時ともの)レオン、阪本、(ホークスでの)大野も期待通り活躍。('06~)'07年の小笠原に至っては、リーグまたぎでの連続MVPに輝いた。中堅どころの広瀬、吉竹も進境を見せたし、広い意味でとらえればバレンタインも優勝監督になっている。
 もう一つ、特徴として挙がるのが万能選手の多さ。黎明期すでに津田(二塁、三塁、捕手)、藤浪(捕手、三塁、二塁)、吉川(捕手、一塁、外野)、鈴木秀(捕手、外野、三塁、二塁、一塁)でユーティリティーイメージが立ち上がっており、戦後も小林、辻井、土屋亨、小森・・・とひっきりなし。'60年代には代打屋・宮川、代走屋・山本が出てきて"仕事人"イメージより深化。再びユーティリティーに戻れば飯田幸、野田、上田、渡辺勉、苑田、服部、山越、岩本好、馬場、元木、に種田。守備オンリーだった渡辺、山越、岩本を除けば、その多芸ぶりは"安全パイを装ったクラッチヒッター"としても発揮されている。
 万能選手が多ければ、当然コンバートも頻発。別揚表で大まかな流れは拾えるがそれでも不充分。小森、荒木には外野メインの年もあるし、’01年金城はまさに内野→外野のコンバート年。「2」の新紀元となった高橋も外野→内野、逆に松本は内野→外野への転向組。本屋敷、小坂といった名遊撃手があっさり二塁転向したのも見逃せない。
 だが黎明期の「2」番像は、山下{※2}、小川とクリーンナップ固定の中心選手、が先行。脇役も中堅・寺内、二塁・江口、遊撃・中村は不動だ(中村は’40年復帰後は三塁)。また’38年から山下、’42年には寺内がともに離番初年度プレーイングマネジャー就任。津田も’36年巨人第2次米遠征時の主将。チームの支柱(=幹部候補)イメージはここから始まっている。
 戦後に入ると元盗塁王・呉、山田と、捕手・筒井、熊耳[くまがみ]、日比野のイメージ陣取り合戦。これに強打の辻井~岩本義、投手の内藤、バイプレーヤーの小林、鈴木秀までまじえたゴッタ煮状態突入。そこから抜けた感ありの捕手像だったが’49年筒井が巨人・三原修監督に”ポカリ”される(背番号「31」編参照)と、同オフ日比野が新球団・パイレーツに引き抜かれ一気に消沈。
 渾然[こんぜん]一体のまま2リーグ分立を迎えると、投手方は藤村富美男の弟・隆男を、捕手方は’44年新人初の打率3割記録の阪田(ただし当年全35試合)、元甲子園の人気選手「和中[わちゅう]の和中[わなか] {※3}」を、俊足タイプには前年の都市対抗優勝チームから今久留主[いまくるす]兄弟の兄・淳[すなお]を、強打者勢も’48年都市対抗で初の天覧本塁打を放った小野田を、と全勢力とも話題の選手を取り込みがっぷり四つ。この状況を象徴するように、山下からスターの座を継いだ岩本は、’51年にゲーム4本塁打記録の強打者であり、’50年トリプルスリー(3割、30本塁打、30盗塁)達成の脚力もあり、’51年27試合連続安打、’52年シーズン24死球と出塁にも長けたオールラウンダー。これは別番時のことだが、通算で捕手に3試合、投手でも1登板する”神主裁き{※4}”で全系譜痛み分けによる事態の収束を図った。
 その後スターの座は広岡へ。その広岡遊撃手と早大で三遊間を組んでいた小森、翌年参入の小玉(三塁手)とで幹部候補イメージを増強。3人中、旗頭が広岡だったことは以降の木村、平井、浜中、さらに小池、岩下、一枝、山崎裕、バート、広瀬・・・と続く遊撃名手の大氾濫[はんらん]を呼んだことからも明らか(山崎は’69年~二塁手)。投手{※5}&捕手像はその波にモロに呑まれた。
 強打像も岩本以降矮小[わいしょう]傾向。小玉、山崎は四番起用された年もあるがあくまで中距離系。長距離[スラッガー]像の打刻者は栗橋、レオンに’79年竹ノ内、から鈴木貴、バンスロー、ロペス、に城島、小笠原、’06年リグスといったところだが、四番を張ったのは栗橋、レオンの2人だけ。主役というより助勢タイプの印象(栗橋もこちら役期間の方が長い)。
 逆に徐々に主流にのし上がっていったのが韋駄天[いだてん]像。’62〜’64年と小池が20〜30盗塁して芽を吹くと、’66年代走の山本が32で盗塁王(代走では14個)。’74年中塚は28で盗塁王。’75年も33で2位。そして広岡後のスター内野手・山崎が”イブシ銀”へとイメージ移行する頃合いを突いて、絶妙のタイミングで現れたのが高橋慶彦。’79年55盗塁でタイトル奪取しスターの座に就くと、やや遅れて台頭の松本と、’80年代中盤まで激しく火花を散らす。その最盛年が’83年。松本がセリーグ記録の76盗塁でキングを獲[え]たが、敗れた高橋とて70盗塁。70も走ってタイトルならずはこの年の高橋だけである。ならばと2年後、今度は73でキングを奪還した。
 また高橋は打率3割超の常連でもあり(計5度)、’79年には日本記録の33試合連続安打のヒットメーカー。こちら面で強力なライバルとなったのが同じ一番打者&甘マスクの田尾。一番定着の’81年初3割、2位ながら.001差の.350を打った’82年〜3年連続最多安打を記録。’83年には別の意味で人気を博した”ドカベン”香川が8月初旬まで打率トップ(~結局故障で規定打席不足)。その前後で’79年白、’80’82年栗橋、’83年田尾が3位に入り、’84年レオン、’90年バンズロー(に’96年ロペス)は各々首位に.010強差と肉薄。したが、着前年3割超マークの横田、山崎賢(に金城)は「2」で衰勢。加えて半定着だが’88年簑田、から大野、飯田、波留(~’04年以降荒木、’06年東出、’07年渡辺直)と快速一番打者が続々台頭。大野以下、3割記録が各1度で全て.310以下(松本、荒木も同様。東出、渡辺は2割台)だったことも作用して、ヒットメーカーイメージは徐々に平穏化していった。
 かわって徐々に興隆化したのが捕手像。他勢の飯田が’98年~出番減、元木は準レギュラーの域を脱せず、荒木、サブローは伸び悩み、という中で’97年城島が2リーグ分立後最年少(21才)での捕手3割マーク。から一気に抜きん出た。
 それに続いたのも、「内・外野に代打、代走もこなす控え捕手」あがりの小笠原。その万能ぶりを証すように”バントをしない二番ファースト”というシュールなリクエストにも難なく対応。その後小笠原は三番に移ったが、’06年リグスが全く同じポジションで本塁打連発。新たに”助っ人”という意外性パーツを加えより印象伸長度UP。また小笠原はフルスイングながら高打率と打棒面でも呉越イメージを同舟させ、’06年、通算打率が(4000打数以上での)従来記録・リー.320を抜き一時トップとなる快挙。~’08年開始時点では4位(.319)となるも、この万能系譜の末裔が、ヒットメーカー番人としてその灯を守り続けている。
【2008年開幕時点】

(※1)序盤リタイア(~途中変番)したものの、’93年松永も3試合連続初回先頭打者本塁打を記録。
(※2)’24年夏、甲子園大会第1号本塁打を放った通称”ベーブ山下”。春夏通算4本は「2」の後輩でもある香川が5本を打つまで最多~(清原和博が13本で更新後)元木も6本。
(※3)(旧制)和歌山中学、通称「和中」のエースだったことから(大学で捕手転向)。
(※4)バットを身体と平行に”立てて”構えたため「神主打法」と呼ばれた。まだノーヘルメット時代、頭部死球にも平然としていた偉丈夫(ちなみに’52年時は40才)。のち竹ノ内が’69年死球王~脱番後の’76年まで8年間で7度の最多数(通算166=当時最多)を記録。
(※5)投方は藤村が’51年~4年連続チーム最多勝、’52’53年は20勝超と活躍も、広岡登場の’54年を境に’55’56年小畑、’60年サディナ、に’54年藤村各10勝前半、へと衰勢。
【2008年開幕時点】