2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

10

【2008年開幕時点】

 

 投手番、野手番の連結に位置する「10」。'96年オフに山原が抜けてから、'08年にウッドがやってくるまで大きな“穴”が空いたことで、現況ほぼ野手番イメージオンリーの趣も、かつては両者のイニシアティブ争いがなかなか盛んに行われていた。
 それを象徴するのが藤村、服部の両永久欠番選手で、投&打両面で1級の成績を残している。投手として藤村は'36年秋、'37年春と防御率10傑入り、タイガース公式戦初勝利投手でもある{※1}。 服部は'46年から5年連続2桁勝利、うち2度は20勝超の通算112勝。打者として藤村は打率3割超8度、'50年から7年連続20本塁打超、'49年から6年連続90打点超。服部は規定打数{※2}到達は2度だけも、'41年には8本を打って本塁打王に輝いた。藤村は'46年まで、服部は'46年から、“2刀流”での活躍。 服部には'52年、3点ビハインドの場面で代打逆転満塁本塁打、残り3イニングを抑えて勝利投手というおあつらえ向きの語り草もあり、畏敬を込め「鉄人」の異名が付けられた。その後2刀流の「10」は'68年永淵{※3}で再現され、金子、近藤、板倉、久喜[きゅうき]も別番時経験。2刀流ではなく完全転向ながら野上、 山田正もいる。
 さて戦前・戦中は、藤村、金子、畑福といった準エース投手と、中山、長島、服部の捕手陣がイメージ覇権争いを展開。野手では宇野錦、鈴木(=捕手登録だが'38年春は内野手、同年秋は外野手でレギュラー格{※4})、猪子[いのこ]、中村栄が目立つものの皆つなぎ役{※5}。 (野手出場時の)藤村もこの頃は主に二番で二塁や外野を守っていた時代、まだ「物干しざお{※6}」は手にしていない。豪快に飛ばしていたのは服部1人で打者は細々とした印象が強かった{※7}。
 しかし戦後に入ると様相が一変。それはもちろん藤村のイメージチェンジが大きい。大下弘の出現で到来した“ホームランブーム”の時流に乗って'49年、先記「物干しざお」バットで前年に青田昇&川上哲治が樹立したシーズン記録・25を大きく打ち破る46本{※8}。チームは(8球団中)6位にかかわらずMVPを受賞した。また派手な身振り手振りでもスタンドを沸かせ、過剰なまでの闘志ムキ出しで“巨人(=東京)何するものぞ”{※9}を体現、「ミスタータイガース」の称号を贈られた。そして'51年からは元東京6大学野球界のスター・宇野光{※10}もレギュラー定着。東西の人気三塁手の揃い踏みで「10」は一気に華やいだ番号となっていく。
 その脇で、巨人構想外〜広島で一念発起の山川、“将来の大リーグ行き”を胸に秘めるレインズ{※11}、にクラッチ強打者・樋笠、辻井といった選手がイメージに彩りを添えた。
 対して投手は前記・服部の奮闘に続き、江藤、小林、大脇、堀内が出てくるが、打の藤村とタメを張れる「エース」となると'50年までの服部に、'51年の江藤と小林ぐらい。小林、大脇に三富はチームが弱かったせいもあり負けが先行、服部も後任エース・杉下茂においしいところを全部持っていかれる{※12}不運もあり投手番イメージは斜陽へ向かう。
 さらに決定的だったのが、藤村に入れ替わって登場した中田、張本、興津[おきつ]の長打者3人衆の活躍。この奔流に対抗しうる力はもはや投勢には残されていなかった。

 が、その矢先、衝撃のニュースが列島を駆けめぐった。“マッシー村上、大リーグデビュー”である。'64年、野球留学先の米国1Aリーグで好成績を残すと、(2A〜3Aをすっ飛ばして)一気にメジャー(=SFジャイアンツ)昇格。9月1日“背番号「10」で”初登板。日本人初の大リーガーとなり{※13}、29日には初勝利をマーク。

 ところがオフ、帰属先について日米間で大紛争が勃発。すったもんだの結果、村上の大リーグ生活は'65年までの通算2年(実質1シーズン)54登板5勝1敗9S 89イニング 100奪三振で幕を閉じることになり、日本(=南海)帰還後は背番号も「15」へ改番。
 その後、'68年に永淵がワンポイント役でつないだあと、先発・水谷則が台頭も「10」で2桁勝利ならず、脱初年から4年連続2桁勝利のスレ違いぶり。リリーフのシャーリー&谷良に先発・有働も半開花。木田も半復活止まりで、「10」の投像は夢中にとり残されたまま休眠。
 一方、打像は順調そのもの。 先の3人衆の時代には岩下、土屋、アグウィリー(アグリー、アギーとも同一選手)、高倉、スチュアートと“助っ人”役も大当たり。戦後は'48年藤原、以外控えだった捕手も'56と'59年加藤昌、'69年村上公が正妻着座で何とか末席確保。そして、3人衆の首領[ドン]・張本の“基本的には安打量産”型のスタイルを汲んだ永淵、 加藤秀の登場で、かつてのホームラン打者番イメージは“(左の)広角打者[スプレーヒッター]”番へと趣を変える。3者とも首位打者を経験、1発もあり、足も速いという“最強三番打者”(張本は'69年まで主に四番)。以降、巧打タイプが山下慶、島本、ホワイト、スティーブ、井上、オクリビー、荒井、駒田、金本・・・と続き、'97年、“左”“時に1発”“俊足”に“スター性”まで備えた新三番・髙木が台頭(捕手登録だが当年一塁転向)。 イメージ旗振りの期待がかかったが、その後故障がちとなり低迷。 旗手は金本、谷佳の両頭で受け持つ体制となった。
 その浮き腰に乗じていくつか変容が現れる。まずホームラン打者像の復調。 藤井2 、ウインタース4、金本3度の30本以上の他は、初の2軍通算100本到達者・斉藤{※14}を始め吉岡、澤井、半開花の古川、木元や高山、望月も含め“未完の大器”続き(吉岡は脱番後開花)。ホージー、フランクリンは2年目が続かず、ハワードに至っては1試合で帰国、と散々。だが逆流の中、'00年より金本32才にして、'05年佐伯35才にして、各々四番に漂着。ともに当期間は中距離打者のイメージも、比嘉、大松[おおまつ]を焚きつけるには充分といえる狼煙を上げた。
 次につなぎ打者像の再胎動。こちらは“候補”すら久しく絶えていたが、“巧打の二番”荒井がイメージの下地を作り、羽生田[はにゅうだ]で地ならし、ののち水口、本間、城石[しろいし]と出てきた。レインズ〜島野を汲んだ“うるさ型トップ打者”像も佐藤友、大引で再発現機会を窺い中。
 そして捕手像の復権。'76〜'81年と福嶋が実は「10」番捕手初となる長期{※15}レギュラーに定着。道原、西沢をサブに配し、阿野、中出という“金の卵”を養っていく理想的な展開だったが、誰も福嶋のあとを継げず崩壊。その後満を持してやってきた既成レギュラー・山下和も'90年以降サブ滞留、大物新人・髙木も2年目一塁転向となかなか意が通わなかったが、'01年、急に思い出したように阿部が来番~以後正捕手に。主に&六〜七番ながら30本以上を2度記録。'07年には主将としてもチームを引っ張り優勝、さらにセの捕手初の30本&100打点クリアと押しも押されぬ「10」新旗頭に踊り出た。くしくも投手と野手の連結に位置する“捕手”、と「10」にピッタリのポジションだけに今後、フォロワーをどれだけ呼び込むかにも注目。
【2008年開幕時点】

{※1}ちなみにイーグルスの初勝利投手は畑福・・・ 前年巨人でも別番(「15」)で初勝利記録。
{※2}'56年までは「打席」ではなく規定打数(設定基準は年度によってバラバラ)。
{※3}主にワンポイントとして12登板。翌年からは打に専念。プロ入り時の契約金を呑み屋のツケに充て、漫画『あぶさん』の景浦安武のモデルになったことでも有名。
{※4}脱番後に正捕手年もある超万能&元祖両打[スイッチ]選手。後続の「10」 両打打者はホワイト、 スティーブ、ホージー、フランクリン、ロブロと外国人が5名を数える点が特徴的。
{※5}'42年猪子の33犠打は当時としては群を抜いた数(2位で18。全105試合)。
{※6}飛距離UPを狙って藤村が使用した37インチ(約94センチ)の長尺バットの通称。
{※7}'36年に藤村が本塁打王となっているが、本数は2。
{※8}これはブームに便乗して導入された通称・ラビット(=跳ぶ) ボールの影響にもよる。またブームの渦中 『ホームランブギ』を歌った笠置[かさぎ]シヅ子、のとんだりはねたりのステージに感動、藤村はショーマンシップに目覚め、観客を意識した空振り(&“ミスター”が冠された異名)の元祖ともなる。 選手兼任監督時の'56年には結果的に最後となったホームランを“代打ワシ、逆転満塁サヨナラ”で飾る役者ぶりも見せた。
{※9}最顕著例が'48年、巨人の捕手・武宮敏明を失神させたサヨナラ体当たりホームイン。9回2死、完全アウトのタイミングからの“非紳士的”強引突入は「守備妨害」だとして監督・三原修が30分以上抗議したが、試合終了としたこともあり判定覆らず。
{※10-ⅰ}慶大で一塁・飯島滋弥、二塁・宮崎要、遊撃・大館盈六と「百万ドルの内野陣」形成。
{※10-ⅱ}'51年は服部もチーム事情で正三塁手。山川も含めセの4球団の三塁手が「10」だった。
{※11}来日時23才。'55年CLEインディアンスで一番を打った(が翌年途中マイナー落ち)。
{※12}球団初優勝の'54年、32勝&日本シリーズ3勝でともにMVP、と杉下一色に染まる。
{※13}約40年後、日本人2人目の大リーガー・野茂英雄も(日本で投手番イメージが絶えかけた)'02〜'04年「10」へ変え計36勝30敗。 '04'05年高津臣吾も「10」で計8勝6敗27S。
{※14}'82年入団〜'87年100本到達、選手引退する'92年までの総本数161。1軍では通算16本。
{※15}戦前・戦中も、中山'36年のみ、長島は準レギ格で2年半、服部も正捕手奪取は'41年。
【2008年開幕時点】