2008年の背番号風景

日本プロ野球における各背番号別イメージ変遷史

まえがき

 プロ野球選手にとって背番号変更とは(見せ方でも見られ方でもなく)見え方が変わってしまう点で、整形手術を受けるのと同じである。いや、無痛だから違うではないか、と思う人もいようが さに あらず。体にメスを入れるのと同様、痛みもともなうのだ。そんな馬鹿な! 背中の数字[ゼッケン]が変わるだけではないか! そう思ったあなたは本ブログの読者だ。読み終えたら痛みを創造できるようになっているだろう。
 そもそも背番号が野球界に採用されたのは1929年、アメリカ大リーグのクリーブランド・インディアンス{※}、ニューヨーク・ヤンキース両球団において。たちまち好評を得て、'32年には大リーグ全球団で採用されるようになる。といっても背番号自体は、それ以前からアメリカンフットボールやバスケットボール、陸上競技などですでに流通していた。試合中1ヶ所に選手が入り組むケースが多く「選手識別アイテム」がないと不便だったからだ。ただ“当事者内での”識別アイテムだった背番号は、(より遠くから見る)観客側からの識別アイテムとしても有用[スグレモノ]である。と判明すると、グラウンドレベルでは特になくても困らなかった野球界も導入。 ただの選手識別アイテムから選手を象徴する「顔」として奉られるようになっていく。
 「顔」というのはつまり、その数字を思い浮かべるだけで着けている選手の姿が(複数が同時に、ではなく個別に次々と)脳裏へ湧き上がってくる状態を指す。加えて新旧選手が同番号を着けることで、先代を知る者が現役選手に残留影像を重ね、“世襲”意識を芽生えさせたのも大きい。同時代選手の“横のつながり”×異世代選手の“縦のつながり”、で背番号の存在感が面(=顔)へと富んだのだ。
 ここで改めて“背番号のないユニホーム”に思いを馳せてみる。 デザインは1チーム全て同じで選手個々の違いを測れるのは(特に後ろ姿の場合)体型のみ。遠くから見る者にとってはユニホームから読み取れるのは「同じチーム」か「別のチーム」かということだけ。そこへ背番号が描かれるようになり、明確に“あの選手”と“この選手”は違う、というメッセージを獲得する。つまり(見え方の上では)無番号時代は1選手1人格でなく1チームで1人格(選手はその1コマ)、だったといえる。背番号は選手の個性を照らす役割を果たし、遠方へその違いを届けた意味では観客[スタンド]の視野[フィールド]を広げたアイテムでもあった。
 それを最も分かり易く体現したのが長島茂雄。無番の立教大時代(東京6大学の背番号導入は'59年。長島在籍は'53~'56年)、全員が同じユニホームだったことで“あの無軌道さ”はより目に余り、いわゆる識者、玄人筋からは主に批判の対象だった。しかし個別に背番号が与えられ、ゆえに“全員違うデザインのユニホームを着る”プロの世界では逆にそれが映えた。いわばアマ時は“見せ方”として捉えられたものが、プロでは“見え方”のみ汲み取られたのだ。別の見方をすればアマ球界は背番号を導入した(高校野球'52年、大学野球は東都リーグで'55年、社会人は'53年)時点で(身分は不変でも、意識の上で)ある部分プロ化した・・・いい換えれば、それまでのプロは邪道、アマこそ王道。からプロが頂点、アマ選手がそこを目指す、構図に意識レベルで変わり始めたのだ。
 ただ、実は日本で背番号が初使用されたのは'31年春の全国中等野球(=現在の高校野球)甲子園大会で、つまりアマの方。だが継続使用されず同年夏の大会から無番に戻った。また同年秋に大リーグ選抜を招いて行われた日米野球で6&7戦目に背番号が再登場(米国側は1戦目から着用)するが、この時も日本選手の身分はオール・アマ。から'34年、再び行われた日米野球で今度は日本チームも1戦目から採用。この時もプロというわけではなかったが、直後にこのチームを母体とするプロ球団「大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)」が発足。そして巨人の音頭で'36年結成した日本初のオール・プロによる野球リーグ(現通称・NPB)では参加全チームが背番号を採用。それまでは全てがアマ発でプロが倣う、図式だったのが、背番号はプロで先に流行りアマが追随する初のアイテムとなった。そして、日本で背番号が浸透したのと、プロ野球リーグが理解されていったのは、全く同時進行であり、背番号(というアイテム)は「プロ野球」にとっての証印、裏書きといえた。
 その背番号から各番号ごとにイメージが立ち上がっていったのは思わぬ副産物であった。この想定外の事実が、歩みを共にするプロ野球、への大衆支持をもスムーズにした面は当然ある。といっても背番号イメージを形作るのは選手だから一方的享受でなく還元。 イメージの着生経緯は選手がすばらしいプレーを生む、ことから始まる。そこへ、立ち合った者の“この瞬間を留めおきたい”との思いが働き、語り草が飛行機雲のように曳き出されていく。そして何度も反芻されるうち、徐々にあいまい化する記憶の中で、最も確かなもの=目印として残るのが最も簡素なデザインである背番号。かくして“さまよえる語り草=イメージ”たちは各背番号に集約され、背番号は「簡略化したイメージ」の象徴(=イメージの源泉)として、軽い存在(背番号自体が何かを生むわけではないという事実)のまま担がれる位置(高み)へと昇っていく。要するに“幅”を持ったのだ。
 この“幅”が背番号最大の魅力で、原っぱ野球に立ち戻れば背番号は別になくてもいいのである。何番だから成績が上がる、ことは当たり前だがない。だが現役選手の誰よりも長い歴史を持つ背番号は、選手個々に思い入れのある番号を“選ばせるほど多種の顔”を内包している。選手はあこがれの××番を着けると上手くなれる気がし、あるいはお気に入り番号を“剥奪”され消沈し、逆に発奮材料にもする。元々は実体から生まれた“尾ヒレが(後代の)実体を先導する”現象が次々生み落とされるのだ。 受け手側では'60~'70年代、少年ファンの間で(王貞治・長島茂雄の背番号である)“1”や“3”の下駄箱が奪い合いになる(2重3重の)主客転倒劇が現出した。
 しかしこれらは、同じ思い入れを持たない者にとっては“バッカみたいなこと”である。厳密にはこの世に宝物は存在しない。それが“宝”なのはそうと信じる者、同士においてのみ成り立つ価値観で内実はただの物だ。いわば“宝”とは物を包む風呂敷のような存在(=安心感、信用度・・・間違いはないという)で、言葉に置き換えれば暗号(=外部の者にとって外国語、当事者にとっては母国語)。背番号も、名番号ごと(“野球人”間を単なる思い入れが往来し、結ばれてできた) 思い込み[イメージ]があり、選手はその思い込み[イメージ]に照らし合わされる宿命を背負っている。その最も濃いのが“「18」=エースナンバー”という符丁だ。日本の野球人であればたとえ初見であっても(学生野球でない限り)「18」を着けた者がエース(またはエース候補)投手だろうことは即座に読める。初心者になぜ? と問われても“だって「18」だから”としか(とっさには)答えられない。まさに暗号、野球に囚われた者だけの“公然の”秘密。
 そういう符丁を各番号ごとが(そう成るに至る変遷史も合わせ)持っており、グラウンドはさながらその交歓会場・・・観客は番号イメージというフレームを選手にあて、ながら選手が落とした最新影像は全肯定し思い込みを加筆・修正する。思い込みの枠内ならば“間違いはなかった”と安心し、より思い込みを強くする(この確認作業の最も分かり易い例が高校野球での「1」だろう。もはや事実が想像を上回ることは“投”面は不可能と思われる)。
 そんな編纂[へんさん]行為がくり返され各観客ごとが (人間の顔がそうであるように各自少しずつ違う)野球史を創っていく。のだが内実は他人からは窺い知れず、いわば(交歓しなければ)空想。そこから語り合うことで共有部分(=イメージの物差し)が導き出され、それを持つ者同士の(空想と空想の)間に連帯感=往来可能な遊び場=信頼関係が生まれる。それが全体へと広がった末に、その時代における絶対的価値観(=“宝”)が成り立っていく。つまり“宝”とは物を語ること=無から生み出された価値。
 そしてその“語り”を曳き出すのが背番号の軽さ=たかがの部分。これだけは各自何らかの思い入れを持っていると皆が思い合い、“全員同じものをいだいている”一体感が心の軽さ=気安さを呼び、ひょっとして全く同じなんじゃないかという予感を招き、思い入れを語ってしまう。 もし違っていても罪がない。だってたかが背番号(=元々なかったもの、飾り)なんだから。そんな“ナメられる余地”を、こだわりを生むようになった今もなお残しているのが背番号の実力=懐の深さで、たいていの人は無抵抗なものを前にすると勝手に守ってあげたくなるものなのだ。いい換えれば無抵抗なものとは言い訳に利用できないもの、のことで選手にしても“背番号で野球をやるわけじゃない”はOKでも“何番だから活躍できなかった”とは (マジでは)いわない(・・・裏を返せば されど とは無から生み出された価値)。背番号は接する者の“幅”も知らず知らずのうち広げているという究極の客観アイテムなのだ。
 本書は始めは無だった背番号イメージがどのように有形化したか、詩的にいえばいかにして幸せ(=付加価値)をつかんでいったかの言及書である。構造としては各番号かく語りき、その編纂者・黒島大鉄。・・・もちろん背番号イメージは(実存はしていても)実在のものではない。要するに嘘[フィクション]である。と同時に(実存はしている=生き物、という点で)真実である。

{※}前段階として'16、'17年インディアンスで、'23年セントルイス・カージナルスで袖番号を試用。だが観客から見えづらく、見え方=門外漢の受ける印象にも影響なく消滅。