【2008年開幕時点】
ピッツバーグ・パイレーツ時のバリー・ボンズ('92年まで在番)、シアトル・マリナーズ時のケン・グリフィーJr.('99年まで在番)の影響で、走攻守揃った“左の万能スラッガー”番のイメージが濃い「24」だが、そのイメージに沿うのは高橋由伸だけ。
米国の源流がウィリー・メイズ('50〜'73年)であるのと同じく、日本もこのタイプは右(古川、岡本、簑田、秋山)がリードしてきた。
ただ簑田、秋山が添い遂げず「1」変更したため現在では印象薄。ここへきて陽、山崎、堂上[どのうえ]が参入も、堂上が早々に「1」へ、陽は一時両打に挑戦し、と多難な立ち上がり。イメージ再興なるかは陽と山崎の活躍しだい、その上で「24」で通すかどうか&陽が右で通すかどうかによっても“左右”されそうだ。
さてその「右」の初代は黒田健。球足の速いゴロの際には一塁へ山なり送球して“間一髪”を演出した三塁手。打っては三番で俊足好打を発揚。本堂、古川の後押しもあり、この時すでに“右の俊足好打”番イメージが萌芽。まだ“スラッガー”は点かないが、そもそも戦前・戦中は“ホームラン打者”という概念自体がなかった(背番号「3」参照)。一方投手は'37年伊藤が通年7勝、'40年三富6勝、'38年伊藤&41年泉田各3勝が目立つ程度で、'37年春松本操1勝7敗、秋に繁里(しげさと)1勝8敗、'42年再び松本1勝10敗と負け先行例も続いて対抗馬となり得ず。
野手は戦後も本堂、古川が勢い堅持。'47年からは荒川も参画。そして'48年、小鶴が打率2位。本塁打3位&盗塁も27。たった1年の滞番とはいえこの席巻は強烈だった。何よりその年別番へと流れていた本堂、古川が翌年揃って「24」復帰。さらに'51年から渡辺博、'52年から岡本もレギュラー加入し、球界全体でもスタンダードな打者ナンバーとして確立。'53年岡本は.318で首位打者&19本塁打、30盗塁。“二軍上がりの野手”初のブレイクという点からも注目されMVPを獲得。'54年には渡辺打点王(&打率2位の.353、盗塁30)。控えにも“天覧本塁打第1号{※1}”の小田野、代打の八浪[やつなみ]、友川、'56年代打満塁逆転サヨナラ“つり銭なし{※2}”本塁打の樋笠と多士済々。これにリードオフマンで土屋、'53年日下、'57年塚本、加えてバント名人・磯田でプレーイメージ幅も拡張。
また古川が'50年56を始め30盗塁以上5度、岡本が同3度。捕手・荒川も'50年25、'52年32盗塁(&'50年三塁打王、'48年にはサヨナラホームスチール)。日下も25以上2度。に本堂'46年20、渡辺'54年30と走る「24」像が浸透。極め付きが'51年、75試合で52盗塁した土屋。
そして日下、友川で“左”像も分派旗揚げ。島田幸、戸口、遠井へとつながっていく。ただ、打陣のレギュラー期間が荒川'52年まで、本堂'53年まで、日下'55年まで、古川'56年まで、渡辺'57年まで、岡本'59年まで、で次々やんでいき(磯田、島田、戸口は準レギュラー)、この流れの中、ちょうど入れ替わるようにして鉄腕・稲尾が登場する。
ここで戦後からの投手事情を振り返ると、'46年井筒、'48年池田がともに2桁勝利だが翌年脱番。寺川は規定到達2度+90イニング超4度と戦力になるが最多で7勝止まり。'52年“初登板完封”発進した浮洲はその1勝で退去。と、波を生めずで、稲尾は全くの突発出現だった。新人年より8年連続20勝、うち30勝以上4度で、'61年42勝は日本記録。当8年間は全て200イニング超、うち300超6、400超2度(=該当の'59・'61年は先発完投&救援完了ともパ1位)の無窮ぶり。その上9年目以降も含め、防御率1点台が6度(パ3位以内8度)。日本シリーズには4度出場計11勝(日本記録)。語り草となっている'58年“対巨人3連敗後4連勝”時は6登板(5先発4完投) 4勝2敗、第5戦では延長10回サヨナラ本塁打まで放って堂々MVP。「神様、仏様、稲尾様」と言う冗句、しかし最高に真に迫った冗句は、こうして生まれた。
さて稲尾のスーパーエース期間は'63年まで。その間'61年山本義5勝、'62年門岡10勝〜'67年にも9勝、に渋谷[しぶたに]が'62年から6、14、6、8、4勝と出てきそうで出てこない状況が続く。
そして'64年、稲尾が肩痛で0勝。というピンチを“救援”するように「8時半の男{※3}」宮田が出現。'65年69登板(先発2)で救援完了46 (当時新)の20勝(うち先発1勝)、加えて現在の規定を充てればセーブも22と強烈な印象を残す。日本シリーズでも3救援2勝(これが巨人V9の1年目)と大奮迅した。
それまでも、'55'56年戸川一郎、'59年荒巻淳、'63年安部和春、'65年にも竜憲一、板東英二がほぼ救援での好成績を挙げたが、竜以外は“非先発時のエース”と共同で受け持つ形。通年でほぼ一手に受け、なおかつ“こいつが出ればもう終わり”と敵からも味方からも思われた「守護神」はこの年の宮田が初代である。1登板あたり2イニング超のハイペースがたたり、宮田は当年で燃え尽きた感ありだが、この“灯”は当然「24」にも生き継がれていた。
同'65年永易[ながやす]10勝、復活・稲尾の13勝は先発と両役でのものだが、翌'66年から稲尾が救援中心起用に切り替わり、'70年からは小谷、さらに左の渡辺弘、小坂とリレー。のちのエース、遠藤一、大野も入り口は“リリーフエース”で、'70年代の先発実績は'74年玉井6勝、'76年〜古賀11、5、4勝に、'79年両役・遠藤の先発8 (トータル12)勝ぐらいと完全に後発移転した。
また打者像も、前述の島田、戸口に加え'57年醍醐、'59年ボトラが準レギュラーとなるが、衰勢を証すようにスピード印象がしぼみ、体形はややふくよか。それは遠井の台頭落語かてき{※4}でより顕著となった。'63年にレギュラーに就き、翌年後半から四番も打ったが本塁打は平均10強、打点も50〜60、打率はセ5位以内3度が示すようにアベレージタイプ。'64年からはだ醍醐が正捕手。'71年まで務め、この間児玉、久保が半レギ格。'75〜'78年有田はレギュラー。また遠井のイメージフォローを兼ねる島田が''62年に'64年以降、戸口も'64年以降、代打に回り、八田、広野が後釜着任。広野は'71年、「24」選手2例目(の代打満塁逆転サヨナラ本塁打。同年は醍醐も4打数連続本塁打(日本記録)をマーク。大波過ぎたあと、捕手以外では久々の右打・住友が参入。'73'74年とレギュラー張って、'73年は21盗塁&13犠打と大味へ傾倒した流れを融和。とともにスピード像復活への気運も焚いた。
そして気運が狼煙となって上がったのが'77年日本シリーズ第4戦。1点ビハインドの9回2死、代走・簑田の二盗〜浅め左前安打で長駆ホームイン。これで名を売り、翌年61盗塁で福本豊に9差のパ2位。'79年今度は島田慎が福本と5差の55盗塁{※ 6}。並行して、'79年より台頭の中畑が年ごとに打順を変えながら“準四番”にイメージ漂着。有田も'79年以降は捕手としてより、“控えの強打者”で馳せ、簑田も'80年31本{※ 7}と“パワー”が前提像に入ってくる。それは'85'86年秋山連続40本以上(盗塁は20前後)、でより強固に(※ 8)。だが島田、簑田、秋山、さらに仁村と新鋭さをが次々退去。
必然的に「24」を“アガリ”とした遠藤、大野、の投イメージが生き残る。のだが両雄に続く人材がなかなか本格化せず遠藤7度、大野5度を数えた2桁勝利は、以降'89'90年内藤、'90年西本、'92年高村、'95年吉井、'05'06年門倉、'07年寺原に中継ぎで'94年下柳が挙げるに留まる。抑えも遠藤('80と'90年)、大野('81〜'83と'91〜'94年)以外は'95年石毛・15SP[セーブポイント]が最高成績。矢野、大川、佐藤秀明、住友、下柳、遠藤政、福盛、花田のタフ中継ぎ像が先に立っている状勢だ。
一方野手は中畑、秋山が抜けたあと、'88〜'92年連続犠打王の二番・平野で地味変化[へんげ]。古川、渡辺博、日下、簑田と続く“強肩外野”は平野においても健在で、'89年には71試合目で19補殺(≒送球アウト数)と、'54年日下が作ったパ記録・23の更新確実ペースだったが、結局負傷し21止まり。この平野がつないだあと、'95年D・Jが4打数連続本塁打マーク。これが狼煙となり、'96'97年桧山進が連続20本超で四番着座。から'98年高橋由が来参、'04年まで7年間で3割6度、25本超5度、強肩系譜にも名を連ねた。一時レギュラー落ちした桧山も'01年〜3割2度、15本前後で中軸復帰('06年〜代打)。2人で左打者のアガリ番として「24」顕示し、'07年内野の左・後藤光が準レギ確保でさらに領地拡張。また故障連発で一時沈滞した高橋が、'07年“開幕戦初球本塁打”を皮切りに初回先頭弾9の日本記録樹立と“攻撃型一番”で再発光。本稿冒頭の“右”群に加え、陽&後藤の“強肩内野”もイメージ転覆を目論む中、山崎、&'08年着の英智[ひでのり]とで組む“強肩外野”が未だ優勢との印象も焚いた。
そこへ速球上手[うわて]の寺原、遅球下手[したて]の下敷領[しもしきりょう]と振り幅随一の投手方から突風が吹く可能性も。
【2008年開幕時点】
{※ 1}ノンプロ在籍時の'48年、都市対抗で放った一発が初の天覧本塁打とされる。
{※ 2}3点ビハインド時での満塁弾で“1点差”勝ちする意。記録の神様・山内以久士氏命名。
{※ 3}球場の大時計が8時半を指す頃さっそうと登場したところから付いた異名。
{※ 4}いしいひさいちが10年早く生まれていたら“がんばれゴローちゃん”なる漫画が世に出ていたであろう逸材。当然ながら鈍足も'70年オールスターではランニング本塁打。
{※ 5}広野も“満塁逆転サヨナラ”は2度目(1度目はドラゴンズ在籍の'66年に記録)。
{※ 6}そして翌'80年〜米国でリッキー・ヘンダーソンが4年で3度100盗塁以上、の“韋駄天”来報。
{※ 7}同年犠打も31の二番打者。それでいて打点が79、盗塁も39。
{※ 8}また“塁上のトンボ返り”島田誠〜“バク宙ホームイン”の秋山で身体能力の高さも発信。
【2008年開幕時点】